マサキシンペイ

空気人形のマサキシンペイのレビュー・感想・評価

空気人形(2009年製作の映画)
3.9
この映画は、「心」の有無によって「モノ」と「ヒト」を区別・対置し、ペ・ドゥナ演じる「モノ」であるラブドールののぞみに「心」が宿り、ARATA演じる純一への恋心を通じて徐々に「ヒト」に近づいていく物語である。
純一と共に過ごす時間は「生き生きと」輝いているのに、体は「生なき」作り物であることに悩み続けるのぞみが、愛らしくも悲しい。
しかし描かれるのは、のぞみの悲しさだけではない。街で暮らす人間の心も実は空っぽで悲しい、のぞみと同じようなものだ、ということが繰り返し作中で確認されている。
なるほど、のぞみの所有者である、板尾創路演じる秀雄は、勤務先で「お前の代わりはいくらでもいる」と罵られている。彼の存在はこの街では労働力という「モノ」としてのみ扱われ、役立たずの烙印を押されている。
寄る辺のない老人、妻に逃げられた中年男性、誰にも相手にされないお局の受付嬢、女性の目を見て話すらできない内向的な浪人生、恋人を失った純一、この街の住人は皆、社会との軋轢の中で孤独を強いられ、「心」が冷え切って「モノ」になっている。
この冷たい「モノ」で埋め尽くされた街の中で、のぞみの恋心だけが温かく弾む。この点でこの映画の主題は明快である。
恋人を失って抜け殻になった純一と、その純一への恋に胸躍らせるのぞみの対比によって、見つめ合う恋人の存在こそが「心」に「息を吹き込む」のだということだ。

しかし、この映画の注目すべきところはのぞみと純一の切ない関係性だけではない。なにより物語に深みを与えているのは、のぞみの所有者である秀雄の存在だ。
のぞみは純一との距離が縮まる程に、秀雄の性欲処理というラブドールとしての役割に嫌悪感を抱き始める。
物語の終盤でのぞみは自分と同じ人形がゴミとして捨てられた荒れ果てた姿を見る。オダギリジョー演じる人形師は、「ちゃんと愛されたかどうか、表情に出るんだ」と語る。捨てられた人形のようにではなく、秀雄はのぞみを本当に愛していたのだ。秀雄も「のぞみ」という恋人と別れた寂しさを、のぞみで埋めようとしていた。それは純一と同じはずである。
しかし、秀雄はのぞみと見つめ合うことは許されなかった。のぞみによって「心」を取り戻していく純一と、のぞみに避けられることで「心」の拠り所を失う秀雄の差はなんだったのだろうか。容姿か、老いか。
作り物の体を持つことで純一に捨てられるかもしれないと悩むのぞみの悲しみと、陰毛にまで白髪が出てきたことで愛し合える時間の短さを危惧する秀雄の虚しさは、実はぴったりと重なる。どれほど温かい「心」を持っていても、生まれ持った体のせいで、見つめ合う恋人は理不尽に奪われ、「ヒト」として生きられなくなる。
人間の心も空っぽで人形と同じようなものではないか、という一貫した問題提起は、秀雄の存在によって物語により濃密に絡みつき、この映画を、ちょっと設定の突飛な単なるロミオとジュリエットから、深く非凡な作品へと昇華することに成功している。
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