もものけ

汚れなき祈りのもものけのネタバレレビュー・内容・結末

汚れなき祈り(2012年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

ルーマニアの小さな村には小高い丘の上に貧しい教会が建っており、ヴォイキツァは修道院で暮らしていた。
ドイツの孤児院で一緒だったアリーナが訪ねて来て、久しぶりの再会を楽しむ二人だが、ヴォイキツァは神に身を捧げているため、アリーナとは次第にすれ違いが起きてゆくのだった…。







感想。
作品を鑑賞していると、キリスト教への疑問を感じさせられる内容と演出で、「すべての迷える子羊へ、教会の門は開いている」と謳っているはずが"異教徒は立入禁止"である閉鎖的な環境と、修道女を奴隷のように扱い権威で支配する修道士の構図が、カルト宗教を思い起こさせる異常なロシア正教会の宗派。

信仰心を逆手に取る男社会の宗教を、訪ねてくるアリーナの視点からその異常さを描きますが、多数を占める信仰集団の中ではアリーナは異端であり、観客には悪魔憑きになったようなアリーナの異常性を強調して、宗教的な視点へいつの間にか変えられている手法をとった斬新な演出です。
これは、何も言うことができない環境が寡黙を生み、異端である異常行動を見せられることによって、「あれは悪魔の仕業だ、だから信仰の無い者は救われない」という洗脳を疑似体験させる演出でございます。

アリーナとヴォイキツァは同性愛者であり、冷静になって鑑賞しているとカルト集団から救い出そうとしているように見えます。
ロシアではロシア正教会の信仰が根強くあり、修道士が語るように西洋キリスト教会への批判の一つで"同性の結婚"をあげているように、同性愛者へ精神病としての認識を持つ文化がある土地です。
第二次世界大戦でも顕著に現れており、共産主義者がナチスドイツが迫害するユダヤ人、ロマニー、精神病患者の中に同性愛者を含んでいる対象を、同じ対象として共に迫害していた歴史もあるように、ロシアではタブーの一つです。

この作品はキリスト教というカルト集団を描いて訴えかける内容であります。
穏やかに語りかけるヴォイキツァは美しい顔立ちであり、奴隷のように扱われている修道女達の活動も貧しい人々への奉仕でもあることから、このような清廉潔白である正教会の信者が間違っている訳がないという錯覚を覚えさせる演出をとっていて、より一層とアリーナが悪魔憑きになるように見える構図です。
この対比構図は、キャスティングでも現れており、修道女達は比較的整った顔立ちですが、アリーナは男性的で特徴的な顔立ちです。
こうすることによって観客は、美しい者には間違いがないと錯覚するように誘導されます。

物語の中では異常な世界観が表現されています。
イエス・キリストの血をワインで飲む聖なる儀式と、女性の生理現象であり子育てに必要である人間としての聖なる血と、何が違うのか理解に苦しむ"汚れた血"の話や、修道女と交わる修道士のパラダイス環境、人間の生理現象でもある自慰行為への否定など、性的なイメージを持つ全ての生理現象を否定しておきながら、修道士自らの性的な欲求を満たす行為は肯定するという、まさにカルト集団そのものであります。

非常に興味深い演出が、アリーナが修道院で行われている汚らわしい現実を否定する行為が、ホラー映画で描かれるエクソシスト物の演出と酷似している点です。
人が変わったかのように神を否定する暴言を吐き、十字架を嫌って目を背けるなど、悪魔憑きの行動をアリーナの視点から鑑賞していると、"悪魔"という存在は信仰が作り上げた都合の良いまやかしであるという秀逸な演出方法でございます。
そして暴れるアリーナを冷静に人間として扱う医療関係者と、縛り上げて猿ぐつわをかまして、どうしたらよいか狼狽するだけの修道女達の温度差が、一層と信仰の無意味さを感じさせる演出となっております。
罪を告白して祈るだけの生活は、同じ思想を持つ者同士のコミュニティなら平穏な生活になりますが、社会では多様性のある人々との暮らしとなります。
それが閉鎖的なコミュニティに閉じ籠もって、異端者を毛嫌いして追放する思想を持ってしまう理由なのかもしれません。
修道女達の背景にも問題を抱えた人々ばかりで、逆に言えば社会生活に馴染めない人々が、心の平穏を求めて集まる場所ともいえます。

修道女の逸話話で"隣に寝ていた夫の茶色い目が黒くなり始めて、声が変わっていった"という話があります。
日中の灯りと夜の部屋で目の色が変わるのは当然で、感情の変化で人間は声色も変わります。
しかし信仰熱い者には悪魔憑きとして写ります。
信仰心が冷静な判断を鈍らせて、噂話に尾ひれを着けて大袈裟な話へと変わり、恐怖で"悪魔"の存在から逃れる為により信仰心を熱くするというループを感じさせます。

この作品を鑑賞すると、苦しい現実から目を背け、同じ思想を持つ者同士で楽な生活をしたいだけの気の毒な人々の滑稽な姿を連想してしまいます。
そしてそれを支配している修道士こそが"悪魔"にしか見えなくなります。
盲信の恐ろしさを感じさせます。

とはいえ作品は信者の生活と都会の生活を交互にも写し出しており、偏った視点から描いていない点も興味深い。
周囲の環境が変わると信仰と異端の捉え方も変わるというメタファーとして、映像で表現しております。

アリーナは統合失調症です。
レボメプロマジンという抗精神薬が投与されていることから分かります。
そして異常なまでにヴォイキツァに依存しています。
更に激しく気分の変わる性格は、統合失調症の典型例です。
そうなると社会での生活が困難となります。
ドイツで失職して戻って来ることにも伺えます。
その過程で現れる症状が悪魔憑きとして描かれていて、とてもリアルです。

何度か伏線として登場する鎖に繋がれた犬が、アリーナを繋ぐ鎖になるのは良くできた構成です。
失禁して放置され、食べ物も与えられずに、寒い場所へ鎖に繋がれたまま放置すれば死んでしまうのは当然ですが、修道女達には理解ができません。
これが盲信の怖さなのではないでしょか。

作品は宗教へ対する批判的なプロットをとっているように見えますが、これは社会の縮図を描いているように感じます。
仲良しコミュニティが、毛色の合わない相手を虐めて追い出す人間の本質が、最も顕著に現れる場所として宗教を題材にしているだけで、どこの社会にもありえる話に悲壮感漂う余韻が残ります。

手ブレの多いカメラを用いてドキュメントのような映像でリアル感を出している北欧的なフィルムの質感が良いです。

被写体を後ろから撮影するバックショットを多用した映像に、観客の声(事実)に目を背けて盲信に囚われている表現だとすると、秀逸な手法であります。

ラストの医師が冷淡に批判する語り口が、監督が意図した訴えの集約ように見えます。
事態を悪化させ泣くことしか出来ない修道女が、逆に憐れみを感じてしまうほどであります。

司法に委ねられ同行させられる修道院の一行ですが、ヴォイキツァだけが世俗的な服装になっています。
これは盲信から目が覚めたメタファーなのでしょうか?
彼らの乗る車へツバを吐きかけるように泥を飛ばした車でエンディングを迎えるシュールさが、なんともいえません。

この物語は2005年にルーマニアで実際に起きた出来事を映画化しております。
まるで1900年代以前のような修道院での暮らしが、21世紀にもなった現代の出来事かと思うと驚嘆させられます。

監督が問いかける信仰とはなんぞや?を改めて考えさせられる秀作に、5点を付けさせていただきました!!
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