朱音

静かなる叫びの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

静かなる叫び(2009年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

1989年12月6日に起きた、モントリオール理工科大学内での大量虐殺事件。反フェミズムを掲げる男の手によって犠牲になった14人の被害者はいずれも女性で、その痛ましい惨劇と傷痕を、実話をもとに架空の人物によって描き出したのが本作『静かなる叫び』だ。

ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』を思い起こさせるが、痛ましい事件の顛末を日常の延長として客観的に描きながら、この事件にかかわった人間の声にならない叫びを痛切に描いてみせた、本作、『静かなる叫び』はその先を行ったと言えるだろう。
ミニマルで写実的、その中でひとの弱さとともに強さを、絶望と希望を、そして愛を描いた。抑制された情報と演出で、いや、抑制されているからこその明確には描かれない登場人物たちの過去・現在・未来が鑑賞者の深い部分を鋭く抉ってくる、実に見事な作品だ。


余白による雄弁な物語。
全編白黒によって撮影された映像、極端に少ない台詞、あえて情報を制限することによって生まれる無限の情報量。日常を突如として突き破る戦慄の銃声によって幕を開ける本作は、やや時系列を乱しながら、この事件に関わった3人の人物の背中を執拗に追い続ける。
今回の大量虐殺を引き起こした犯人の青年。事件に巻き込まれながら、からくも生き延びたヴァレリー。その渦中で何かを守ろうともがきながらも、何もできなかったジャン。なぜこの事件が起き、どんな地獄が展開し、それは人に何を残したのか。
それについての明確な解答が劇中で語られることはない。しかし映像によって、役者の目によって、音によって、景色によってその答えは雄弁に物語られている。そこから何がしかの意味を導き出すのが我々鑑賞者の役割なのだ。

本作は明確な原因と結果、答えを求める作品ではない。欠けたピースを、余白を、行間を読む映画であり、そこにはオブジェや詩のような美しさと力強さに満ち満ちている。そう、不謹慎なようだが、この映画はこのうえなく美しいのだ。


「映画の持つ力とは?」
繰り返しになるが、本作は全編白黒の映画だ。カラーになる瞬間は一瞬たりともない。現代において白黒で描かれた映画というと、第84回アカデミー賞作品賞に輝いたミシェル・アザナヴィシウス監督の『アーティスト』を連想するが、この映画の技術や力はあの作品のさらに上をいくものだと思う。
さらに本作は物語の内情に触れる類の会話も極端に少ない。交わされるのは日常的な会話のみで、ここから物語の核心部分を紐解く解を得られることはほぼないといえるだろう。
会話というのは物語における補助線であり、つまり現在の状況や人物同士の関係性、それから物語がどのようには動いているのか、観客にわかりやすく説明するという効果もある。

もちろん監督や脚本たちが込めたテーマに対するメッセージもそのひとつだ。

だが、これまた繰り返しになるが、本作は色、会話という情報を徹底的に少なくして、これ以上ないほどに情報量を制限しているのだが、だからこそ、本作の持つ映画としての力が一気に引き立った作品になっている。

本作が素晴らしいのは、この映画は確かにカラーという意味での色はないのだが、人物の持つ色気、艶というものが確かに存在していることだ。
だから本作を見たときに一気に人物に引き込まれてゆく。
例えば、画面に映る犯人の青年、彼の瞳、ちょっとした表情の変化、そういったものに注視していると様々な感情がこちらにも伝わってくる。その人物に雄弁な物語が生まれてくる。
彼を取り巻くのはフェミニストたちに対する憎悪だが、それ以上に彼を蝕んでいたのは、彼の生活におけるがらんどうの日常ではなかろうか。冷蔵庫の蓋を開けて固まる彼の姿、窓の外への視線、モントリオールの雪景色、重要なのはそちらのほうなのだ。

彼を突き動かしたがらんどうの狂気は、大学構内の喧騒のなかでひとり立ちすくむ姿、その喧騒を離れて窓外の雪景色をひとりで歩く姿が雄弁に物語っていると思う。ことここに至っても、彼のことを気に留める他者は誰ひとりいない。フェミニズムなんてものは言い訳にすぎない。
彼を支配しているのは圧倒的孤独感と疎外感であり、その事実は彼がターゲットと定めた教室で行われている講義によって実は暗示されている。この手法は次回作の『灼熱の魂』、そして『複製された男』『メッセージ』でも繰り返されている。


それは被害者側も同じで、主人公のひとり、女子大生のヴァレリーなどは、ドキリとするほどに美しい女性だ。最初に着替えのシーンがあるが、別に胸や尻など、直接的に性的な箇所をさらしているわけではない。ただ足のすね毛を剃って、ストッキングを履く。それだけのシーンなのだが、これがもの凄く艶かしい。
これも色という情報をカットすることによって、その流線美などをカメラが捉えているからだ。


教室の外で一線を超える覚悟を決めた犯人の背後にある写真。いつもと変わらぬ日常が流れる構内に飾られたパブロ・ピカソの『ゲルニカ』。誰も気づかぬうちに発動した時限装置の微かな秒針音のような、静かに迫りくるその時を暗示させながら刻まれる緊張感は鋭く、尋常ではない。
そして鳴り響く銃声と悲鳴。阿鼻叫喚。それでもこの映画は一定した淡々としたリズムを狂わせることはない。それがひたすら恐ろしく、悲しく、不謹慎な話ではあるものの美しいのだ。犯人の狂気と孤独、ヴァレリーたち犠牲者の恐怖、ジャンの無力感。
犯人の空虚な瞳が、凶弾に倒れて折り重なった女生徒たちが、ジャンの心象風景を投影させた海岸線の空撮が、絶望的なまでに悲しく、直視できないほど恐ろしく、震えるほど怒っているというのに美しい。なんというアンビバレンツだろうか。

その最たる例が犯人の最期の姿だ。床に倒れたふたりの体と、やがてひとつに溶け合う血の海。これこそが彼の見ていたモノであり、求めていた結果なのだと思う。それが現出した瞬間の許しがたい怒りと、残酷さと、身勝手さと、悲しさと、そして圧倒的な美。

決して同情とまではいかないものの、犯人に対してかなり危険な接近を試みたヴィルヌーヴの中立的な姿勢は、やはり凡百の監督とは一線を画すギリギリの綱渡りだ。こんな狂った犯罪を実行してしまった狂人が美しく解放される瞬間を描き出してしまったのだから。
男性と女性が結びつく瞬間を、どうしようもなくわかりあえなかった悲劇をこのように美しく撮るというのが極めて衝撃的であった。


本作は"性と死"をしっかりと描ききっている。
人間の狂気の極致である大量殺人について、一般人が理解できることはそれほど多くない。だが、そこをどのように映画として捉えるか、ということが重要になってくる。
ここでは艶かしいほどの"性"が映しだされたからこそ、その"死"がより強調されてしまう。その対比が強烈だからこそ、より事件や恐怖は現実感を増し生々しさを獲得する。


さらにいうとこの作品を貫くテーマは"男女の性差"に関するものだ。実際の事件と動機は同じで、犯人が手紙に残した動機は「女は権利を主張し、男からそれを取り上げていく」というものだった。
反フェミニズム運動から生じた犯罪である。

先ほどからあげているように本作には色はなくても艶があるからこそ、女性陣は眩しいほどに光を放っている。生の実感に溢れている。
そこには未来があり、希望があり、将来がある。

一方の犯人にはそれがあまり感じられない。先程にも述べたが彼を取り巻くのは圧倒的な疎外感と孤独であり、彼の日常はがらんどうだ。
それは銃を持っているから、犯人だからということではなく、彼は"性"を徹底的に否定しているからだなのだ。
だからこそ本作は「被害者の女性=生」であり「犯人の青年=死」という図式が成立している。


決して肯定しているわけではないが、同じ男としてその弱さと情けなさを多少の理解はできる温情なのだろうか、それはこの事件を通して圧倒的無力感と後悔を植えつけられてしまった、ジャンの苦しみと決断にも言えることだ。男とはかくも弱く情けない。それに対する女性の強さと美しさ。彼女たちは犯人が言い訳として憎悪したような甘えたフェミニストなどでは断じてない。今よりもはるかに厳しい時代の空気のなかで、その現実と対峙しながら、痛みを抱えながらそれでも前を見るまなざし。女とはかくも強く美しい、という構図を鮮烈に描き出しているのだ。


ひとつの悲惨な事件を通して描き出される男女の性差と、決断の違い。その違いがいつかはあの血の海のように混ざり合うことが未来であり、希望なのかもしれない。男と女が混ざり合って生まれた新たな命が、未来へと希望を運ぶ唯一の架け橋なのかもしれないと本作は語っている。
朱音

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