舐めるように鉄筋のタワーをカメラが降下する中、青や赤に染まった鋼鉄をすり抜ける白字のスタッフロールがトリコロールを形成していく。
パリ五月革命。
一卵性双生児のテオとイザベル、留学生マシューとの交流の物語。
映画館や映画を観ることが母胎回帰や子宮に例えられるように、この作品では映画そのものが喧騒渦巻く革命の遮断壁となっている。
映画ごっこやベトナム戦争や毛沢東の論争もあくまで室内、外部に触れることはない。
テオとイザベルが兄妹でありながら性行為に及ぶのも幼児期特有の多形倒錯の名残り。
幼少期に味わった性的放埒を求めては不全感に陥る虚しき作業。
一番外側に現実があり、内包する形で幼児期のアナロジーが連鎖していく。
邪魔者がいない家。
ルール無用の性行為。
食べ散らかし。
ゴミだらけの台所。
マシューはその異常性に気付いても去ろうとはしない。母性は誰もの原点だけに郷愁感を覚えるからだ。
ラスト近くでイザベルが居間にテントを張り、三人で眠るシーン。
核心である子宮のアナロジー。
ただどんなに壁を作ろうと現実の方が蹴破って抱えている夢すら飛散する。
外で待っている革命の動乱。
でも革命も夢の後先なら夢が終わることはあるのか。
夢から覚めれば、また夢。
今度は現実を織り交ぜたシニカルな夢。