ヨーク

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのヨークのレビュー・感想・評価

4.1
ついに観ましたよ『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を。いやー、英国映画協会ことBFIが2022年に発表した史上最高の映画100本の中で堂々1位に選ばれた『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』ですよ。ちょうど同じくらいの時期に日本では同作の監督であるシャンタル・アケルマン特集をやっていて映画好きの間では話題になっていた『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』です。今までアケルマン特集は複数の劇場で行われてたけど時間が合わなくて観られていなかったんだけど、この度やっと観ることができて俺もやっと映画通の仲間入りですよ、WAHAHA。やっぱり映画好きを公言するのなら『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』くらいは観ておかないとね…。いや別に『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を観ていなくても全然映画好きを名乗ってもいいと思いますけどね。大体が『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』がなんぼのもん…いやもういいか…。なんかクソ長いタイトルの映画だと意味もなくタイトルを連呼したくなるんだけど、もう充分ですね、はい。
まぁそんな『ジャンヌ(略)』なのですが俺にとってはアケルマンの長編としてはこれで三本目になる。順番では『家からの手紙』『ゴールデン・エイティーズ』で本作『ジャンヌ(略)』である。その中ではぶっちきぎりで一番面白かったですね。流石BFIに選ばれただけのことはある…かどうかは置いといて何だかんだ面白い映画ではありましたよ。『ゴールデン・エイティーズ』を観たときには(大丈夫かこの人…)と思ったけど全然大丈夫でしたよ。やっぱ人には向き不向きってもんがあるんだな。どう考えてもアケルマンはミュージカル映画には向かない人材だろう。
あらすじ、といってもぶっちゃけこの映画にあらすじなんてものはない。タイトル通りにブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地に住んでいるシングルマザーである主人公のジャンヌ(多分、作中で名前呼ばれてたか曖昧なので、多分)の三日間の生活を定点カメラで捉えただけの映画なのだ。
マジであらすじはそれだけ。朝起きて朝食の準備をしながら革靴を磨いて、高校生くらいの息子を起こしてご飯食べていってらっしゃいして、その後午前中は買い物や掃除をして郵便局(?)に行ったりして子守のバイトをして夕飯の準備をして息子におかえりなさいする。しかも動かない定点カメラで。まぁさすがにその一連の姿を描くだけの作品ではなく、一応映画的なフックが効いていて物語が展開しそうな部分としては主人公である主婦は自宅で売春をしている、ということがある。夕飯の用意をし始めるくらいの時間にジャガイモを蒸かしながらその間の時間に日替わりで一日一人だけの客を取って売春をしてるんですね。ケツモチ的な人がいるのか完全にフリーでやってるのかは分からないが、まぁバイト感覚で主人公は売春してるわけだ。それは何か、すごい物語が展開しそうな予感はするんだけど、ややネタバレかもしれないがそこからお話が広がるということもないんですよ、この映画。
トータルで主人公の三日間の生活が描かれるんだけどその売春という要素も物語を大きくドライブさせたりはしない。あくまでも生活の一部の日常として描かれるだけ。コーヒーを淹れたり皿洗いをしたりという日常の延長でしかない。ただ、本作で面白いのは日常しか描かれないために一日目は眠たくて仕方ないんだけど二日目以降の描写は一日目との些細な違いというのが目について面白くなってくる。一番分かりやすいのはジャガイモを蒸かすのを失敗しちゃってイレギュラー的に新しいジャガイモを買いに近所の雑貨店まで買いに行くところだろうか。またせっかく淹れたコーヒーの味がなんかおかしくて(この豆傷んでるのかな…)と不安になって水筒に入れたのを全部捨てて新しく作り直したりとか、そういう同じ日常を送っているように見えつつ、細かな差異がある部分がとても面白い映画でしたね。
そしてその細かい差異と同時に描かれるのは”ながら”として描写される日々の家事であろう。掃除も洗濯も料理も一切やらない人ならともかく、日々の雑用的な家事なんて大体”ながら”でやることが多いじゃないですか。洗濯機を回し”ながら”掃除をするとか、ご飯を炊き”ながら”おかずをつくるとか、お風呂にお湯を張り”ながら”洗濯物を取り入れるとか。半ばルーティン化しながらもその日によって○○をしながら××をする、という”ながら”の家事は複数の有機的な組み合わせがあって毎日が全く同じ作業の繰り返しというわけではない。
そこが本作で一番面白かったですね。些細な変化ではあるがその日によって変わる日常の作業、そしてその作業をしながらまた別のこともするという選択の組み合わせ。ここの僅かな揺れ幅というのが実に映画的だと思ったんですよ。映画というのは言うまでもないけど、日常とは違う非日常を観せてくれるものである。その非日常というのは主人公が同じことを繰り返しているだけにも見える本作の中でも細かな差異や”ながら”の組み合わせとして描かれるのである。駅から自宅までいつもとは違う道を通って帰宅した、というのもささやかではあるが非日常だ。そういう日常の揺らぎやながらで重なる二つの行動といったものが何かのきっかけで大きく日常を踏み外すこともあるかもしれないという、そういう萌芽のようなものを本作は描いていると思う。
もの凄く極端で大げさな言い方をすればだ、昨今アメコミ映画で流行のマルチバースという概念があるが本作もマルチバースを描いているとも言えるだろう。毎日淹れているコーヒーがいつも通りだった世界と何か変な味がする世界、または洗濯機をまわしながら生肉を捏ねていた世界と掃除機をかけていた世界。世界の趨勢には全く寄与しないようなどうでもいい違いだけど、毎日の日常の中にもそういう違いの揺らぎがあって、さらにその行為にもう一つ”ながら”を掛け合わせることによってまた違った何かになりそうな予感さえ感じる。売春行為の最中に客と身体を合わせ”ながら”この後息子と夕食を共に食べることを考えるときもあれば不意に「もう全部どうでもよくなったわ」と思ってしまう時もあるのではないだろうか。それは全く別の結果を生むかもしれないが、常に日常の中で重なり合っていることなのだと本作は言っている気がした。なんなら本作は三日間に分けて描かれているけどそれらは直線的な時間の繫がりはなくて異なる並行世界の三日間かもしれないのだ。
多分、アケルマンはそういう量子世界的な視座からの日常という観点で本作を撮ってはいないだろうとは思うけど、今現在の俺からの目で観たらそういう部分があるようにも観える映画だったなと思いましたね。むしろアケルマン的には本命だったろうと思われるフェミニズム的な観点ではそんなに面白い映画ではなかったな。まぁでもこの映画で描かれている日常というものをどういう風に切り取って観るのかというのは相当な部分で観客に委ねられていると思うので非常に懐の深い映画ではあると思う。
あと本作のクソ長いタイトル、愛と信頼のウィキペディアをはじめ外部サイトでは上記している『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』でそれに準じていたんですが、我らがフィルマークスでは『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン』という更に輪をかけてクソ長いタイトルになっている。これなんか違いがあるんだろうか? それともこれも異なる世界線上での量子的なタイトル表記の揺れなんだろうか。いやまぁどっちでもいいですけど…。
歴代で最高の映画かというと全くそんなことはないけれど、でも面白かったですよ。時間さえ合えば他のアケルマン作品も観てみようと思った。しつこいがやっぱミュージカルは向いてないよ!
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