マサキシンペイ

マッドマックス 怒りのデス・ロードのマサキシンペイのレビュー・感想・評価

5.0
生まれて初めて劇場に二度足を運んで観た映画。役者の演技がどうのとかストーリーがどうのとかではなく映像の全てが一秒たりとも逃すことなくあまりにも面白い。

ある意味カルト的な人気を誇った今作であるが、その熱狂の訳を考えると、単純なアクションのテンポの良さや、劇的な展開に彩られたマックスやフュリオサらのヒューマンドラマではなく、この世界における「生活感」に着目すべきだと思う。物語とは必ずや起承転結の形を持った非常事態を描くものであり、勿論、この作品もその例に漏れないのだが、しかしこの作品は物語の中に日常のリアリティ、世界観に準拠した合理的な状況設定を持たせている点で、他の追随を許さない作り込みを感じさせる。その中でもこの映画で最も特筆すべきはカーデザインだ。

設定としては、放射能によって汚染され資源も枯渇した、荒廃した世界だ。
ここからは僕の推論であるが、そこでは生命維持のため汚染されていない水源が最も高い価値を持つ。時代背景としては勿論、水を巡った「万人の万人に対する闘争」が生じたのであろう。その戦争状態は強靭な戦闘能力を有する人物の登場によって締結する。イモータン・ジョーだ。イモータン・ジョーは水源を獲得し、そこに国家を設立する。
しかし水量は限られており、平和的で平等な分配を許すものではない。分配に何らかの制限を施す必要があり、しかしその政治は必ずや反抗勢力の発生を伴うため、従ってその芽を詰むためのより強大な武力・兵器を必要とする。その生産には鉱石資源が必要であり、その価値は高まる。
同時にその生産能力の維持と、あるいは水源と鉱山を移動する車を動かすためのオイルも価値を持つ。
このようにして鉱山、油田を牛耳る武器将軍と人食い男爵の国家は、それぞれ弾薬畑・ガスタウンとなり、三国は互いの生命線を担っているため依存せざるを得ず、必然的に同盟関係を形成している。
結果、この強固な地盤を持ったイモータン・ジョーの権力は、自身を神と崇め、神の為に死ぬことを至上の喜びとするウォーボーイズ達の軍を率いるまでに膨張する。このような統治者の神格化は、物的コストをかけることなく軍の統率を可能とするため、この世界の環境下では極めて合理的な政治体制と言えよう。

ところで、しかし国家を脅かす勢力は存在する。奇襲攻撃を得意とするヤマアラシ族という盗賊達だ。彼らは資源の貿易のために荒野を移動するウォーボーイズらを襲い、彼らの持ち物を奪ったり死肉を食らうことで生きている。

この映画の世界におけるウォーボーイズ達の暮らしの「日常」とは、弾薬畑やガスタウンから資源を、ヤマアラシ族から死守しながら輸送するという労働である。従って、車はその暮らしに最適化したものでなければならない。
弾薬や爆弾はウォーボーイズの命よりも貴重な世界なので、捨て身であろうとも一撃で相手を戦闘不能にする戦略が好まれる。ここで印象深いのは、棒飛び隊である。棒飛び隊は、車に設置された長い棒にしがみつきしならせて相手の車に飛び乗って攻撃を加える部隊だ。輸送中の戦闘はカーチェイスの最中で行われるので、相手の車に飛び乗る方がより確実に効果のある攻撃が繰り出せるわけだ。かつ、この戦略は死を恐れないウォーボーイズだからこそ可能なものである。
ヤマアラシ族にとっても棒飛び隊は脅威であるはずだ。従って彼らの車は、飛び乗られないように、まさにヤマアラシのように刺まみれである。

あまりにも冗長な説明になってしまったが、普通の感覚で見ればあまりにも装飾的でふざけた見た目である、棒飛び隊やヤマアラシ族の車の過剰なインパクトが、この世界においては切実な生活のニーズから必然的に見出される、合理的かつ機能的なデザインである、というところがこの映画の魅力を最も根底から支えているのである。カーデザインが、戦略やそれを可能とする政治的背景、生活の需要を雄弁に語っているのである。

この映画に登場する車は全て、主役級のド派手なインパクトを放っている。本当に全ての車がシビれるほどカッコイイ。普通なら、主役とサブを分けて、主役のデザインがより活きるように、インパクトの濃淡を配慮するよう心がけるだろう。それができなければムダの多く安っぽい虚仮威しに写ってしまう。
しかしこの映画のデザインは、全ての登場人物に生活形態を設定しその暮らしにフィットした車を与えることで、いたるところに散りばめられた過剰な装飾性に機能を持たせ、「最初から最後までエンジン全開」なのに、地に足をつけた深みのあるリアリティが宿っている。
これほど考え抜かれた美術の映画に、リアルタイムで何度出会えるのだろうかと思いを馳せてしまう圧倒的な傑作である。
マサキシンペイ

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