Angie

悶絶!!どんでん返しのAngieのレビュー・感想・評価

悶絶!!どんでん返し(1977年製作の映画)
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恐怖狂気の大暴力博覧会

恐ろしいものを観た。最初から最後まで、一貫して物語を開示しない姿勢そのものがまず恐怖であるが、より感覚的にも、暴力の連鎖からなる恐怖感は抑えられず、永遠と続いていく。

こういう時に、映画においては、話の筋というものは全く関係ないことに気づいてしまうのだ。こんな怪作が堂々と、「悶絶!!」なんていうタイトルをつけて、しかもロマンポルノの枠で公開したな、と、当時のことを思うと驚愕してしまうのである。

最初から既に、暴力は始まっている。それは主人公にも伝染していく。この暴力はヤクザのそれとは異なり、非常に記号的であり、シュールであり、80年代的であるのがまた面白い。健さんのポスター、唐獅子牡丹の挿入歌、ゴットファーザーという固有名詞が出てくることから、この暴力の対比は非常に意図的に仕組まれたものであることがわかる。その男は、やくざを目指してもチンピラ止まりであり、非常に空虚な暴力を繰り返すのみだ。濡れ場よりも多いかもしれない暴力シーンは、やはり実録映画と比較するとあまりにも乱暴で、バカらしさがある。そして何よりも、全く意味がない、本当の意味で、無意味なのだ。ここに本物の狂気と畏れを感じる。理由なき暴力が映画いっぱいに広がっていた。

肝心の主人公の「転身」は、今日のジェンダー観からすると驚愕であるが、重要なことは暴力の視点が加わったことで全く霞んでしまうことなのだ。つまり、物語のネタでもある「転身」は十分なコメディ要素であるのだが、主人公は「転身」したことで、強靭なパワーを身につけている。それはいわゆる「女らしさ」とは無縁なものだった。彼は谷ナオミを縄で縛り付けはたきまくり、かつての婚約者に買ってきたケーキを投げつけ(ここ本当に最高だったあと100回くらい見たい)、軽トラにしがみつき、転がり、そして何食わぬ顔で立ち上がるのだ。ここで感じられる力や暴力性は、既に狂気を超えて超人的になってしまったことを示しており、主人公が単純な性別移動を成しただけではないことがわかる。つまり、もう彼は、人間でもなくなってしまったのだ。

神代辰巳の映画は常に、理由を示さない登場人物たちがバラバラに示され、観客を置き去りにしていく。『一条さゆり〜』における主人公(一条さゆりではなくて伊勢山ひろ子)は、まだかろうじて、「シラケ」という言葉で説明できるような退廃感を示していた。だけどこの作品の人物たちは、何一つ形容する言葉がない。暴力を楽しんでいるようにも見えるし、意味がないこと自体に意味を見出しているような気もする。
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