Angie

にっぽん’69 セックス猟奇地帯のAngieのレビュー・感想・評価

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我らと彼らの間には?

2021年7月23日、ニッポン、トーキョーでは、オリンピックの開会式が行われていた。そんなテレビの中継を見ながら、私はいたたまれない気持ちになっていた。この世は、大きな矛盾のもとで成り立っている。そんなことの象徴とも言える、おかしな祭典の始まりを眺めていると、気が狂いそうだった。何が正しく、何がどうなっているんだ?かけ離れている感覚を、急いで消さなければ…
私は急いで、この作品を再生する。

我らと彼らを分つのは、ナレーションであり、スクリーンであり、カメラである。
様々な若者は、皆「体制に争うもの」という共通項を提示しながら、かなりテンポ良く並べられていく。
ここの眼差しは、なんだろう。とても居心地の悪いような。それはやっぱり、「奇妙なもの」を上から見つめる姿勢があるからだ。
これはある種の「帝国主義」的な感覚というのがある。奇妙なものを見つめる、体制側からの目線。でもそれは、弱気ものを見下す視線でもある。それをスキャンダラスな目で見ていく。まさに、この作品の立ち位置というか意義に関しても、エロとグロだけじゃ物足りなくなった(売れなくなった)東映(岡田茂)が、スキャンダルを売りにして(わざわざタイトルにセックスとつけて!)公開したものであろう。だから、この作品自体最初っから、我らは安心して覗き見ることができるという前提に立つ。ここから見つめる彼らはどんなに抵抗しても無駄だ。
そして映画は、彼らを分かろうとはしない。彼らとの対話は試みない。「なぜ?」というナレーションばかりで、深掘りはせずに、横断していく。まさにタイトル通り、「猟奇地帯」を渡り歩く、いや、つまみ食いするような作品であった。

ああ、私もこの開会式の映像を、かつてあったものとして、このドキュメントを見るような眼差しで、見れたらいいなあ。ある意味、この作品の「我らと彼ら」と同じように、「オリンピックと私」は完全に分けられている。
でも、この作品のような、奇妙なものを上から見つめるような、そんな権力関係は生じることはない。もはや、逆だ。私は、オリンピックという巨大権力に虐げられている。もはや、オリンピックから私は見つめられている。自分が見ているようなフリして、実は、見られている。

我らと彼らは、完全に離れている。その融合は全くもってめざされない。最終的にたどり着く沖縄では、突如政治性が問題とされる。売春禁止法はここでは全く通用していないー。そして、他の地域においても、売春禁止法はどこへやら…でも、こうやって無関係なフリして、スキャンダラスな目線は、本当に無関係なのか?そして、この作品で示された「彼ら」は、結局ほんのうっすらした表層なのでは、ないのか?
オリンピックは巨大権力の表層であり、ほんの表れに過ぎない、というのと同じように。

「彼ら」は「我ら」にとって、本当に無関係なのか?本当に、分つことができるのだろうか。
私はこのような問いと疑問を感じながら、自分にもブーメランとして返ってきたような焦りも感じる。
つまり、「オリンピックと私」は本当に無関係であって、分つことができるのか?ということである。完全に、今無関係で混じり合うことがないと思い、別世界のような出来事として捉えているのだけど、でも…でも?いや、いやいや、無関係であるはずは、ないんだよ。無関係であるのならば、本当に別の世界であるなら、もはやいいのだけど。でも、コロナが、そうさせない。国が、そうさせない。私という無力な存在はあっという間に、オリンピック=権力=国に簡単に丸め込まれてしまうだろう。だから、無関係ではない。そうだった。
Angie

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