タケオ

レフト・ビハインドのタケオのレビュー・感想・評価

レフト・ビハインド(2014年製作の映画)
1.8
 「ヨハネの黙示録」の予言が実現されていく様を描いたティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズによる小説『レフト・ビハインド』は、95年に第1巻が刊行されるや否や650万部を超える大ヒットとなり、今では全16巻で累計6500万部を超える大人気シリーズとなっている。本作はその第1巻の3分の1程度の内容を映画化した作品となっているが、批評家からは「キリスト教福音派による程度の低いプロパガンダ」と揶揄され、福音派からも「大事な内容を全然伝えられていない」と批判されるという、誰も得をしない極めて残念な結果となってしまった。素人目に見ても本当に酷い作品で特筆すべき点もとくに見つからないので、今回は映画そのものではなく、本作が描いた福音派の思想やその問題点についてを簡単に書いていこうと思う。
 「レフト・ビハインド」とは「取り残されて」という意味で、これは福音派が「携挙(英語ではRapture)」と呼ぶ、とある現象のことを指す言葉である。「携挙」とは、ある日突然「清く正しきクリスチャンたち」だけが、神様によって「向こうの世界」へバビューンと連れて行ってもらえるという現象のこと。純粋に神を信じる「自分たち」は「向こうの世界」で楽しく暮らし、自分たちのことを聖書にイカれた宗教キチ◯イ扱いした「アイツら」は「ヨハネの黙示録」のような世界に'取り残される'という、福音派(特に原理主義者)の方々にとってはこの上ないほど耳障りのよい話である。
 『新約聖書』の中にある「テサロニケ人への手紙」には、「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないだろう。すなわち、主ご自身が天使の声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」という一節があり、これを根拠に福音派の方々は「携挙」を信じているのである。
 別に「携挙」を信じて「清く正しきクリスチャン」であろうと努力することは悪いことではないと思うが、問題なのは「携挙」の理屈に則って、「どうせ自分たちは向こうの世界に旅立つんだし、アイツらが取り残されることになる地球の環境なんてどうでもいい」と考える一派がいることだ。「自分たち」はもうすぐ旅立つというのに、なんだって「アイツら」のために環境なんて考えなければいけないんだ?そんなの金と努力の無駄ではないか。だから地球温暖化の問題だって気にしない。第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプが地球温暖化のことを「嘘だ」と否定し、二酸化炭素排出量を規制する「パリ協定」から脱退したのも、それが福音派からの支持や寄付につながるとわかっていたからだ。グレタ・トゥーンベリが怒るのも当然である。福音派による歪んだ思惑が絡んだ環境問題は、楽しくクールでセクシーに取り組むべき問題などでは断じてないのである。
 キリストが「心を騒がせてはいけません。あなた達の場所を用意したら、また来てあなた達をわたしのもとに迎えましょう。わたしのいる場所にあなた達もいれるようにするためです」(ヨハネの福音書14章1-14)と言い残してから既に2000年以上の時が経ってしまったが、未だに戻ってくる気配はない。しかし、と〜っても心の美しい福音派の方々は今日もまた、「携挙」によってバビューンと「向こうの世界」へ旅立てる日のことを、そしてキリストが「戻ってくる」日のことを今か今かと待ち侘びているのである。約束を2000年以上もすっぽかすような奴のことは信用しない方がいいと思うし、もしキリストが「向こうの世界」で信者たちのスペースを確保するのに苦労しているのなら、メールなりLINEなり天使なりで「ごめん、あと500年ぐらいかかるかもしれない」と連絡ぐらい入れろよとツッコみたくもなるが、福音派の方々にとって、そうやって重箱の隅をつつく僕のような人間は、アンチキリスト率いる「悪の軍勢」の1人のように写るのだろう。だったらいいよ、「悪の軍勢」の1人で結構だよ‼︎
 いっそのこと「携挙」によって福音派の方々がバビューンと「向こうの世界」に旅立たれた方が、科学的な思想に基づくリベラルかつグローバルで平和な社会が訪れるのではないかとすら思う今日この頃ではある。しかし、そうやって理解し合うことのできない「他者」を切り捨てようとする想像力を欠いた傲慢な考え方は、それこそ正に融通の効かない原理主義的な態度に他ならないのかもしれない。「自分たち」と「アイツら」といった形で人間の在り方を雑にカテゴライズする価値観の危険性は、常に考えておくべきだろう。自分こそが正しいと信じて疑わない時、自らとは異なる「アイツら」に対してどこまでも残酷になれる。それが「人間」という生き物だからだ。
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