140字プロレス鶴見辰吾ジラ

トイ・ストーリー4の140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

トイ・ストーリー4(2019年製作の映画)
4.0
【エンドゲーム】
そしてFar From Home

「トイストーリー4」
続編としては蛇足感、同人誌にしては傑作。

「『トイストーリー3』で完結している。」
という意見は間違いなく正解であろうし
「トイストーリー4」は後日談ともいえる。

「エンドゲーム」に対しての
「ファー・フロム・ホーム」に似ていると思わせながら
実際は、「エンドゲーム」のラストで描かれるキャプテンアメリカの決断と、あの空間で認識できたほんの数秒の中でキャップが何を考え、どのように行動したしたかのスピンオフ的な立ち位置であり、深堀りした作品のように思える。

「心の声」

本作はこの言葉がキーワードになる。劇中でのウッディとバズの心の声の違いは何だったのだろうか?これは個人の解釈であるが“正義感”の源ではないのか?と考えている。ウッディはカウボーイのオモチャだ。カウボーイというのは西部開拓時代にまで遡る正義の味方であり彼は保安官という職業である。フロンティア時代でありまだ法整備もままならなかった時代に己の正義ないし良心を基準として正義の味方であった保安官の「心の声」はバズとは違うモノになるであろう。バズはスペースレンジャー、言わば軍人キャラと考えてもいい。バズの時代からすれば法律が確固として存在し、従事すべき国がありそのシステムとして正義の味方だったであろう。ウッディが劇中で「心の声」と呼んでいるモノには縛りがない。しかしバズは自身のギミックとしての発声ボタンを押して繰り出された言葉を「心の声」と表現している。これはある種、国の命令であり、聖書の言葉のように思える。実はバズはシステムの管理下の中にあって、ウッディは開拓時代の自由意思が育んだことによる「心の声」があり、互いにイデオロギーは違っているのでは?と思ってしまった。

実は「トイストーリー4」の中には「シビル・ウォー」が省略されているのではないか?

あの世界においてオモチャの役割は「子どもに遊んでもらうこと。」という概念があるが、序盤でボニーが部屋で遊ぶシーンにおいて「帽子屋さんごっこ」を行う。これにオモチャたちは主の主観判断により、様々な役職を割り振られる。オモチャの中では「別の役がよかった。」「あの役は羨ましい。」と発言する者もいた。実は子どもに遊ばれるオモチャという形は管理国家体制なのではないか?と思ってしまう。ウッディを原語版で演じているトム・ハンクスが本作の結末に涙したという記事があったが、役者という映画の中のキャラクターを台本や演出に演技プランを指示される役者の立場からすればクローズドワールドである。本作の中盤、移動遊園地が眼前に広がるシーンがあるが、あれは紛れもなくオープンワールドだ。本来システム化されたオモチャたちの世界において解放宣言をする者とシステムを保守する層がボー・ピープの復帰から案に明示されているのではないだろうか?余談だが、ボーが劇中で腕が捥げるシーンがあるが、あそこに見たモノは「MAD MAX 怒りのデスロード」のフィリオサのイメージであった。MCUにおける「シビル・ウォー」から「エンドゲーム」の間のイデオロギー性が抜けてしまっているがゆえに「トイストーリー4」という続編の蛇足性および結末の賛否が分かれているのではないか?と考えている。実は4作目の完結→発展の流れは、Mナイト・シャマランの「ヴィレッジ」やジム・キャリーの「トゥルーマン・ショー」の肌触りに近いモノなのかもしれない。

もしも「カリオストロの城」のクライマックスにおいて、ルパンがクラリスを抱いていたのなら…

本作は「アナと雪の女王」から脈々と続く「レリゴー精神」を踏襲しているものである。「カリオストロの城」では、クラリスと道を同じとせず再び盗みの世界へ仲間と戻っていく、つまり作品の円環構造の中に戻っていくルパンが描かれている。これは「デッドプール2」でも似ていて、彼は愛した者のいた場所よりも仲間=疑似家族の元に帰っていく。そういえば「MI:フォールアウト」も愛する者の側でなく、仲間の元へとイーサン・ハントは戻っていった。物理的な役者の死によって道を分けた「ワイルドスピード:スカイミッション」はまた別の話だろう。作品・物語としてのメタフィジカルな構図も念頭に置きつつ、作品内のキャラクターはその作品・物語の中に閉じ込められて、鑑賞者に消費されていく存在でもある。だからこそ愛する者のもとへ行くという決断は物語の都合上できないのであると我々も暗黙知としているところがある。単純にウッディの余生の話で賛否云々という以上に実はキャラクターを現時点から物語束縛から解放させるという理念が存在しているのかもしれない。逆に言えばこの解放運動はデヴィット・フィンチャーの奇作「ファイトクラブ」のタイラー・ダーデンの位置にもくるであろう。彼もまた「心の声」だった。

クリストファー・ノーランの「インターステラー」にてブラックホール軌道上でスイングバイして脱出するシーンで主人公が自身のポッドを切り離してヒロインを軌道から離脱させるシーンがある。彼は過去をおいていくという決断をしている。変化・進化するために過去をおいていくという行為は、ノーラン監督作品の中にある妄念と遂になり、作品のクライマックスで描かれる“進む”行為でもある。単に自己の責任から解放されるという意味合いも本作はあったと思う。ウッディがボニーを過保護に思ったり、フォーキーを過剰に助けるシーンは、アンディの時代から受け継がれている忠誠心の表れであり、その肥大化でもあり何故か哀しく思える場面でもあった。子どもがオモチャを卒業するように、それは「トイストーリー3」で完結しており、「トイストーリー4」では逆にオモチャ視点での子離れなのだと思うと同時に、古い約束、自身も古いヒーローであるウッディの決断はMCUのフェイズ3完結の要素と近かったのだと思う。彼は“キャプテントイ”だったのだろう。

しかしながら本作はフェイズ4の様相もある。これがとても怖ろしいことのように思える。本作から登場するフォーキーは、プラスチック性のフォークにモールやらで手足や目や口をあしらった“モノ”である。オモチャでなくガラクタやゴミと定義さえてもおかしくないわけなので、フォーキーは本シリーズにおいてのフランケンシュタインではなかろうか?しかしフォーキーがこの世界のシステム的にオモチャでないと位置づけられても主がオモチャとして想像すればそれはオモチャである。進化論云々を考えると宗教映画的側面も感じてしまう。しかしこの世界で人格をもったことでフォーキーは新たなトイストーリーというシステムの創世記を司るキャラクターかもしれない。

自由意思とシステム

何か本作が放つホラー的な質感が気になっていたが、実は劇中のアンティークショップがホラー感を出していたのではなく、細田守の「未来のミライ」の質感が被ってくる。劇中のアンティーク店は何か墓場や行き止まりを感じる。その中で出会うキャラクターは物理的欠損や精神的疾患を抱えている。それをウッディの冒険に触れたことでコンプレックスを解消し前へ進んで行くことができている。「グレイテストショーマン」のフリークスの見世物感も感じたのかもしれない。デューク・カブーンの声がキアヌ・リーヴスであることに一層価値があるものと思う。

あくまで「トイストーリー」という名の円環構造からの脱却ではなく、多くにおいて今後コンテンツからの解放戦線が生まれる予感がある。「アナ雪」は女性解放運動の草の根的ではあるが「トイストーリー4」はコンテンツ解放戦線、我々の目の見えぬところでディズニーとその他が行う精神的な「南北戦争」が始まる特異点である可能性があるのではないだろうか。


最後に…
基本、本作のラストは現在の私の仕事の状況もあってか賛成派なのだが、オモチャたちが人間の行動に対して過剰に介入しているシーンは解せないのである。「ファインディングドリー」でもあったが、あれは「チャイルドプレイ」のチャッキーや「死霊館」シリーズのアナベルにやらせておけばいい。だからホラーテイストを感じ取ったのかね…