朱音

エクス・マキナの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

エクス・マキナ(2015年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

この感覚を言い表すなら、子供が産まれた瞬間に立ち会ったかのような、いや厳密に言うなら巣立ちの瞬間と言えるのかな。
人工知能を持ったひとりの新人類が支配やしがらみを凌駕して世界に降り立つまでを、極めてミニマルでエレガントな映像表現と、知的で多層的な会話劇で描いた作品。
ほとんど完璧と言っていいくらいにすべてのシーンが美しく、緊張感に溢れ、皮膚感覚に訴えかけてくるような独特の官能性がある。

本作で印象的なのは、平面的な何かに遮られるようなカットを多用していて、そこにはパーテーションのような隔たりや、閉じ込め(られ)る、覗く、(鏡のように)映すといった様々なニュアンスが込められている。
このように、何かに遮られたものの中で行われる人の動きを観る、というものには生理的なエロティシズムを感じる。
エヴァが最初に登場した瞬間の、壁か柱の陰から窺える人影の、ぎこちない様な、不安気なその動きの独特の艶めかしさ、人間がそこに居ると錯覚させる(人間が演じているのだから当然なんだけど)、人とアンドロイドの初めての邂逅を描いたどの作品よりも素晴らしいと感じた。
バレエ経験のあるアリシア・ヴィキャンデル、ソノヤ・ミズノの美しいプロポーションと圧倒的な佇まい、パントマイムによって、人ならざるものの逆説的な人間らしさ、実存感を素晴らしく表現していて、それによって成り立っている部分もあるが、アレックス・ガーランド監督は人と人ならざるものの曖昧な境を、視点を巧みに操る独自の演出で、感覚的に描き出している。

ネイサンとケイリブ、ケイリブとエヴァ、エヴァとネイサン、常に1対1の関係で交わされる会話も知的で興味深く、密室心理劇として見応えがある。
7つのセッションを通じて行われたチューリング・テストがケイレブ、エヴァ、ネイサンにとってどのような意図、思惑によって行われたのか。
ネイサンの死後、最後のセッションで露わになるのはエヴァによって裁定されていた人類、観る側と観られる側の逆転がそこにはあり、衝撃を感じるとともに、深く感動してしまった。
限られた人間によるチューリング・テストが即ち人工知能の完璧さを証明するというのはにわかには信じ難いが、この物語の内部においては一応の説得力を感じる。高度に発達した検索エンジンが人工知能そのものであるという件も興味深くて面白かった。

フランケンシュタイン・コンプレックスやアイザック・アシモフのロボット三原則などが頭をチラつくこの映画において、殺人シーンは非常にショッキングなものに感じられる。
創造主を殺して、同族の犠牲を糧にして外の世界に飛び立ったエヴァは、このまま生態系の頂点へと上り詰めるのか、それとも他者と向き合ってゆくのか分からないが、想像するとゾクゾクする。
彼女が街で人々の中に合流した様子を、地面に映る影だけで表現したカットはまさに映画的で美しく、印象に残るものだった。


フレンドリーを装いながらも、ずば抜けた知性、財力と権力、人心掌握とマッチョな威圧感で優位性を匂わせ、かつ潜在的な男性性の不全感を抱えたネイサンというキャラクターが独特で興味深く、不気味な存在感。
演じたオスカー・アイザックは鍛え上げた肉体とカリスマ性があって、このキャラクターに強烈な実存感を与えている。

端正で無駄のない、コストとスケールが見合ったという意味でも非常に優れた作品だと思う。
朱音

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