140字プロレス鶴見辰吾ジラ

ブラックパンサーの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

ブラックパンサー(2018年製作の映画)
4.0
”何が見える?” ”祖国だ。”

オリンピックのような映画だ。

平昌オリンピックを見ただろうか?
連日、連夜紡がれる人間ドラマ。
羽生の金メダル・・・
女子パシュートの金メダル・・・
カーリング女子ブーム・・・

ナショナリズムが生んだヒーローたち。

「ブラック・パンサー」もまた、ブラックパワーを背に受けた「俺たちのヒーロー」なのである。”ナショナリズム・ヒーロー”?というやつだろうか?

監督はライアン・クーグラー。
「フルートベール駅で」で鮮烈デビュー。
「クリード チャンプを継ぐ者」で熱狂。
そして「ブラック・パンサー」
黒人の次世代の名監督が、現代の黒人ヒーローに命を与える。

そりゃ、パワーを感じないわけがない。

普段、スケートやスキーやカーリングなんて興味の淵にもないような者たちが、日本代表という生れの偶然性に左右され、彼らをヒーローとして崇め、刹那的にその熱を忘れ、そしてまた熱狂をする。脳内物質にイカされているのか?それとも日和見主義なのか?

ブラック・パンサーとキルモンガーの対比性は、王として選ばれた者とストリート育ちの悪役の対決だ。明らかにキルモンガーに感情移入するように作り上げられていたキャラクターであり、クリードを演じたマイケル・B・ジョーダンの信念ある眼差しと肉体美に背徳的な正義的快楽が付与されている。野蛮な方法で王を決めるワガンダのあまりに危うい国家元首の選定方法が、アフリカン・パワーのブレイクスルーに光と影にように寄り添う、未来への希望と警告を表しているようだった。

コミックイズムは「007シリーズ」のような(「キングスマン」でもよい)スパイガジェットギミックのワクワク感を、ワガンダの隠された国の裏側のファンタジーランドの少年心の夢の国感が抜群に素晴らしい。しかしコミックイズムを映像化するにあたってのアクション表現は夜間だったり、必要以上のカメラワークの回転だったりで正直ゴチャゴチャしていて、アクションにて上がることは到底できるレベルではない。これは「キングスマン:ゴールデンサークル」におけるデジタルアクションの大いなる弊害であると思う。

アクションにおいて上がらず、そして政治色の優等生色を前面に押し出した”ナショナリズム・ヒーロー”の「ブラック・パンサー」に対して、クリエイターの体温は感じてしまったのは、ひとえに”プロレス性”である。

ライアン・クーグラーってプロレス好きなん?

ティチャラが王位を守るシーンのジャバリ族が洞穴から出てくるシーンは、「クリード チャンプを継ぐ者」にて、リッチー・コンランが大道芸人の火吹きパフォーマンスを伴って入場してくるシーンを想起させ、ピンときた。キルモンガーとの王座戦にも、レフェリーのいわゆる”ドラゴンストップ”的な不完全決着の不穏と美学を感じる。ブラック・パンサー自体のポージングによる観客とのコール&レスポンスの一体感のエンターテイメント性もあるし、そして何よりキルモンガーのストリートからの成り上がりマッチョイズムとの対立構図まで、弱肉強食的自然の摂理に対してドラマ性のカウンターを放っているがゆえに、作品のキャラクターたちの熱を失わずに、シンプルな構図で盛り上がれる表現技法がプロレスに似ていると感じた。

正直「ブラック・パンサー」は傑作と叫べるほど大した映画ではないのだと思うのだが、政治的、ナショナリズム的、そしてエッセンス的プロレス感がまた質感の違ったヒーロー映画としての興味深さにひかれた部分がある。

「賢者は橋を掛け、愚者は壁を作る。」

I'm African Beauty
You're American Psycho

「シェイプ・オブ・ウォーター」にも言える
We're American Beauty
You're American Psycho
の立ち位置にいて、壁を作る者に対しての
反抗心は確かに剥き出しにした
”レジスタン”なヒーローでもある。

僕らの側のヒーローとして