140字プロレス鶴見辰吾ジラ

アベンジャーズ/エンドゲームの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

4.7
激闘!
ヒーローだらけの大運動会!!
~ポロリもあるよ~
↑↑これが率直なイメージです。

圧倒的な“実写力”
これがMCUシリーズ集大成!

圧倒的な“実写力”を実現した
ルッソ兄弟に拍手を!

驚異的な“集結力”を成した
ケビン・ファイギに賞賛を!

そしてクリス・エヴァンス
そしてロバート・ダウニーJr
そして多くの英雄に感謝を!

「エンドゲーム」はヒーロー祭りだった。
「エンドゲーム」は虚像の実写化だった。
「エンドゲーム」は妄念の追及だった。

本作のクライマックスはアニメーションでならば、クライマックスに目にすることの多いシーンかもしれないが、アベンジャーズシリーズはそのコミックシーンを実写化すること、そしてアクションを実写化することで巨大な期待とエネルギーを生み出してきた。本作はアクションとその殺陣による“実写力”の賜物であり、アニメでしか描けなかった虚構の“実写化”に他ならない。大の大人がここまで胸をときめかせて追いかけてきたストーリーの集大成は圧倒的物量主義とアニメ的戦法によるヒーローの激闘だった。

しかしながら「エンドゲーム」は本当に大傑作なのだろうか?

それは時間と労力による化学反応が“エモい”という感情を作り出した幻ではないだろうか?それを疑って成らなかったのが前半部のあまりにギャグに傾倒したご都合主義的というかカッティングというか掛け合いというか質感だった。中盤からキーアイテムを使用し大仕掛けの作戦に挑むわけだが、「インフィニティ・ウォー」の喪失感は重厚さは風に飛ばされたようにギャグ比重多めで味付けさせられ進行していく。予告との温度差に驚くやもしれない。そして一部から湧き上がる声として、本作がヒーロー映画なし正義の映画であるかという点である。一貫した正義が本作を貫いていたか?というよりもアベンジャーズの集大成において過去のあの人もゲストで登場!という手法でサプライズを仕掛けたことによる高揚感でキツネに摘ままれたようなエモーショナルの高揚ではないか?と思ってしまう部分はある。本当に彼らはサノスに勝ったのだろうか?

いや、そうじゃない…

サノスは確かに勝利していたが
アベンジャーズは妄念に挑んだのだ。

MCUシリーズに影を常に落とし続けるものとして失ってしまったモノへの“妄念”があるのでは?と考えている。それは愛する人や友人の死や別れでもあるように、人は過去の過ちを正すこと、もしくは未来に予見される過ちを防ごうと考えている。ヒーローの多様性を抱える本作において正義は多様なものであるため集結はしてもひとつにならないが、誰もが根本的に抱える妄念への追及は各々が持ち合わせている。ペギー・カーターであり、妻や息子であり、娘であり、若者であり…

本作は死者を蘇らせることはできない真理に乗っ取り、ある大仕掛けを打とうとする。それは多くの娯楽作からミニマムな哲学作まで使用される古典的な方法だ。死者蘇生は「鋼の錬金術師」や「おジャ魔女ドレミ」で不可能であり禁忌であると言われているからこそ、本作の大仕掛けに人はロマンを託す。それはあの日の妄念に対抗できる手段だからであろう。彼らはヒーローとしての正義以上に各々が抱えた妄念と闘おうとしていたのではないだろうか?ギャグテイストが…と上記で書いたが、何よりアベンジャーズは苦境を皮肉や軽口で乗り越えようとする神話でなく一般庶民に近い感覚のヒーロー像である。そんな彼らがどんな手段で荒れ、あの日の後悔や妄念に抗うことに胸が高鳴らないことはない。彼らとは11年という多くのときをスクリーンに寄り添って共にしてきた。血のつながりはないが彼らと我々は時間の共有者であり事の共犯者なのである。何より集大成で彼らの人間味が様々なところで見られたことにハッとされるに違いない。ときに私は今、酒とタバコを控えだした。そういえば、本作にはドラえもんを見たことある人であれば絶対にわかるあるシーンのパロディがある。(パロディだよな?)そこで示される“愛”が何より、神話的な強さよりも人間的な弱さや妄念に通じ、刺激される部分であるからこそ本作の愛おしさが維持され、そこからある曲がかかるブリッジシーンは鳥肌モノだった。

長らく書き連ねたが、アベンジャーズはスーパー宇宙パワーなど持たぬ人間サイドがほとんどだ。DCコミックのキャラに比べ、彼らが愛された理由として“陽”の心意気と人間味、そして本作の中心核へと誘う妄念の追及が、我々と彼らをともに歩ませ、偉大なる共犯者としたのだと信じる。アベンジャーズはもはや良い意味でも悪い意味でも宗教になってしまった。彼らの良い行いを真似て、軽口とギャグと皮肉で我々も現実の苦難を乗り越えようじゃないか!