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神のゆらぎのumisodachiのネタバレレビュー・内容・結末

神のゆらぎ(2014年製作の映画)
3.1

このレビューはネタバレを含みます

信仰とはなにか?罪とはなにか?神の裁きとはなにか?"全能の神"に挑戦状を叩きつけるシリアスな作品だった。

エホバの証人の信者である看護師と、白血病のフィアンセ。ギャンブル中毒の夫と、アルコール中毒の妻。ダブル不倫に陥った中年の同僚カップル。過去の自分の過ちが許せず、金のために麻薬密売をする男。

【キューバ行きの飛行機が墜落する】という点を軸として、過去と未来を行ったり来たりしながら紡ぎ出される人間模様は、まるで蜘蛛が糸を張っていくように絡み合い、広がっていく。

この作品のキモになっているのは"エホバの証人"。私個人はカトリック教徒なのだが、私が認識しているエホバの証人と一般的なキリスト教との本質的な違いは、大きく分けると

①(キリスト教の原則である)三位一体の否定
②血に触れることへの拒否
③復活という概念の違い

という3点なのかなと思っている。本作で特に問題となるのは、②と③だろう。

エホバの証人は、血に触れることを拒否しているので、輸血を認めない。現実世界でも、これにより様々な訴訟などが起こっている。『神のゆらぎ』では、白血病の治癒と事故生存者の延命という2つの場面で、輸血に関しての精神的葛藤が描かれている。

「なぜここまで頑なに輸血を拒否するのか分からない」という人もいると思うが、その理由は上記の③にある。

一般的なキリスト教の"復活"は、死して魂が神の元にいくことを指す。しかし、エホバの証人における"復活"は、文字通り肉体も含めた復活を指す。

ハルマゲドンにより世界が滅びた後、再建された新しい世界において、新たな肉体を得て魂が復活することがエホバの証人の言う"復活"であり、信仰を持たない人々は、この復活を遂げることができない。無になる。

一般的なキリスト教は、たとえば極悪人であっても、死の間際に本当の信仰心を得られれば神の国に行けるとするのだが
エホバの証人は異なり、信仰心に基づいた厳格な掟を破った者は"排斥"され、やがて待つ新しい世界に復活することができない、としている。

だから、あのカップルはあそこまで頑なに輸血を拒否するし、看護師が、目の前にある命の重さのために掟を破ったとき、深い愛はあっという間に消え去ってしまったのだ。エホバの証人では死を迎えることよりも、死を迎えた後の方が重要なので、彼らにとっては当然の結果だった。

【飛行機事故が起きた=全能の神はいない】

作中で描かれるこの提示は、共感を得るだろう。「罪の重さに関わらず罰を与えるなんて、神は理不尽だ」残酷な事件や大きな事故が起こったとき、そう思う人は多い。

しかし、エホバの証人にとっては、本来意味を持たない言葉のはずだ。エホバの証人にとっては、敬虔なエホバ信者以外は全て滅びる運命なのだから。

しかし、看護師はその言葉を聞いて涙を流す。"確実に救うことができる人間"を2人も目の前にしている彼女は、事故に遭ってもなお生きている命を、見捨てることができなかった。教義上ではなく、実際の"死"を目の当たりにして、彼らの魂が無に帰すのを黙って見ていることができなかった。

掟を破ることを決めた後、彼女が遺族(正確には違うけど)に「命は助かりますよ」と自信を持って断言していたことが、
彼女がエホバの証人と決別したことを示していた。しかし、それは彼女が"神"を捨てたことになるのだろうか……?

……と、ここまで読んでいただいてお分かりのように、私は"信仰"を基準にして本作を鑑賞していた。終末論を唱えるエホバの証人の信徒が、リアルに迫る死と、物理的に救える命を目の当たりにしたとき、どんな選択をするのか?また、しないのか?

しかし、観る人によっては全く違う部分が基準になるはずだ。それは、登場人物ひとりひとりの心情かもしれないし、もっと普遍的な意味での命の重さかもしれない様々な視点からの観賞を許してくれる作品だと感じた。

淡々と、徐々に明らかになる各人のバックグラウンドや秘密、「生存者は誰か」といったミステリー要素、そして"神"という存在へ投げかけられたクエスチョン。

生きるとはなにか、死とはなにか、罪とはなにか、信仰とはなにか。

そして、愛とはなにか。

あなたは『神のゆらぎ』を観て、一体なにを考えますか?
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