yoshi

レディ・プレイヤー1のyoshiのレビュー・感想・評価

レディ・プレイヤー1(2018年製作の映画)
4.2
この映画が2018年4月に日本公開されて、ほぼ1年が経過する。80〜90年代ポップカルチャーへのオマージュに溢れたSF映画。名匠スピルバーグ監督の久しぶりの娯楽作品への本格的復帰に大いに興奮した。80年代に青春を過ごし、スピルバーグ映画で育った私の世代には超ストライクな贈り物。しかし一抹の不安も残るのだった…。

劇場公開時に鑑賞し、その後DVDも購入してオマージュを探して10回くらい見ただろうか?(いい歳して1年近く、オマージュ探すなよ…と言われそう。)
何度見ても毎回面白いのだが、初見から感じる違和感がある。
私が歳を取ったせいもあるだろうが、スピルバーグ監督のファンとして、その不安を言葉にして語っておきたい。(あ、韻を踏んだ…)

【まずは娯楽作として大絶賛したい!】
速いペースで引き付けるストーリーテリングは流石スピルバーグ監督!時間の経過を忘れさせる。
まるでかつての少年ジャンプのスローガン「友情、努力、勝利」をそのまま実現し、カタルシスを感じる物語構成。
冴えない主人公が仲間と共に協力して、弱点を補いあい悪に立ち向かう、まるで劇場版ドラえもんの如し!
著作権料が心配になるほどの溢れるポップカルチャーへのオマージュはここでは全て挙げられないが、要所に日本産のキャラクターが出ているのが、日本人としてはとても嬉しい😊。
(オジさんとしてはメカゴジラとガンダムがハリウッド映画のクライマックスで闘うなんて感涙モノ。)

観客に童心に返って映画を楽しんでもらうというスピルバーグ監督の狙いは大成功している!
どうしても虚構のモノと感じてしまうCGも、描かれる世界がVR世界なので、(私のようなCG嫌いのオジさんでも)現実じゃないからと割り切って見ることが出来る。

オマージュついでに言うと「SFとは新しいビンにいれた古いブドウ酒なのさ」という「コブラ」の作者、寺沢武一の言葉を思い出した。

キャッチコピーの「最高の、初体験」はオジさん世代のVR体験のことを、産まれた時からゲームを空気のように接してきた若い世代にはスピルバーグ印のストーリーを初体験出来るダブルミーニングがある!

初見の感想は、大興奮!満腹!スタンディングオベーション!
すっかり少年に戻ってしまい、僕らのスピルバーグが帰って来た!と心の中で叫んだ。

しかし、あまりに楽しかった為、鑑賞後に妙な虚無感に襲われた。
いい歳したオジさんは「楽しかっただけじゃない…何かあるぞ?」と思ったのである。

【SF映画として不穏な未来の描き方】
SF映画は現在の状況を踏まえて、未来を想像し構築した「時代の鏡」であるというのが私の持論。

映画の冒頭、主人公ウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)の移動と共に2045年に使われているテクノロジーが映し出される。
ヴァン・ヘイレンの曲「ジャンプ」の明るさとは反対に、ショボくて暗い未来世界が映る。
スタックパークと呼ばれるプレハブを積み重ねたような街。広範囲にどこもかしこも荒れ果てている貧民街。

ピザを配達するドローンが音を立てて飛び回り、背景にはゲーム用ボディスーツの巨大な動画広告が流れる。
あらゆる人が仮想現実(VR)に取り憑かれていることが明らかになる。
スタックパークだけでなく、現実世界には希望がなく、逃げ場はVRのヘッドセットのなかにしかない。

いくつものSF映画が作り上げて来た現実世界の芸術的なユートピアとディストピアをこの映画はアッサリと放棄。

オモチャ箱のような仮想空間「OASIS(オアシス)」は無限の可能性があり、人々はここで何でも好きなことを楽しめる広大な広がりをもつ仮想世界だ。
まるで支配されない「マトリックス」だ。

オアシスを生み出したのはジェームズ・ハリデー(マーク・ライランス)という80年代文化が好きな、人付き合いの苦手なプログラマーだが、彼は死ぬ前に大がかりなイースターエッグ探しを思いついた。

オアシスのどこかに3つの鍵を隠し、すべてを見つけた者には、途方もない価値のあるこのVR世界を授与するというのだ。

宝探しは欲に駆られた人々を熱狂させ、VRに縛り付ける。子どもからお年寄りまでVR三昧の生活。

どう見ても生産的な現実世界ではない。
仕事はAIや機械に任せる未来が来るというが、人間のすることはVRゲーム?
ゲームでのステイタスが、貧富の差に影響しているようだ。
事実、主人公はゲームで集めたコインで現実に物を買っている。
主人公は見るからに10代だが、学校に行っている様子などない。

27年後はAIに支配されてはいないが、機械が人の仕事を奪い、人間のすることがないのか?
まともに働いている人が、映画にはほとんど出て来ないのだ。
巨大企業IOI関連の人々と、リセットされショックで自殺しようとした中国?人、そしてラストに登場する警察官だけ。

肉体労働者が出てこない未来。
それらの人々がみんな「ガンター」になったのだろうか?
これはディストピアの新しい形である。

卵探しは何年にもわたって続いており、「ガンター」(egg hunterの略だが実はエロいスラング)たちは巨大企業IOIより先に、この挑戦を成功させようと必死になっている。

IOIを率いるノーラン・ソレント(ベン・メンデルソーン)がオアシスを手にすれば、ユーザー達の自由は奪われてしまうかもしれない。

ウェイドもそんなガンターの1人だ。
冷たく言えばアマチュアゲーマーのニートである。
オアシス内ではパーシヴァル(アーサー王伝説に出てくる聖杯探しで有名な騎士)という名をもつ。
彼はエッグの隠し場所の手がかりを得るために、寝食以外の空いている時間はすべてハリデーの生涯の研究に費やしている。

とうとう手がかりを見つけたウェイドと仲間たちは、VR世界オアシスでも現実世界コロンバスでも、IOIの傭兵たちに追われることになる。

一方で、ハリデーの人生を追いかけたことにより、ウェイドは80年代ポップカルチャーの歩く百科事典となっている。

総理大臣の名前を書けなくとも好きなモノはとても詳しい子が現実にいる。
好きなモノだけを追いかけるネット社会に育つ現代の子ども達の進化系だ。
オタク文化の象徴とこの映画を評する人もいるが、真のオタクは無数のオマージュを配した製作側ではなく、主人公のような知識の偏った(それしか知らない)未来の人物像である。

心配なのは未来の子ども達の育ち方だ。

ウェイドは映画の冒頭で「人々は何かをしたくてオアシスにやって来る。そして、そこで自分が何になれるかを見つけて、オアシスに残る」と言う。

この言葉は2018年のVRにも当てはまるだろう。アヴァターを使ったVRチャットは、現代でもオアシスのような気分を少しばかり感じられる場所だ。
オアシスは未来の娯楽であるが、もう現実になりつつある。

VRシーンで80年代の映画とゲームとアニメのカルトたちが集結して、最高のアクションを繰り広げる。
このVR世界もいずれ現実に作られるだろう。

これに大ウケする観客がいる一方で、元ネタを知らないために何が面白いのかまったく理解できない若い世代がいる。
(事実、私の中学生の子供は貸したDVDを見て「チャッキーって何?」と聞いてきた。無理もない…。)

私達責任ある大人は、若い世代のウケを心配するよりも、ゲームやVRを空気のように触れながらも、現実世界を否定して育つ子ども達の方を心配するべきなのだ。
教育は深刻な未来の課題なのだ。

VRは自分とは別の誰かになりたいという願望を叶えてくれる。しかしそれは現実ではない。人間関係を作るツールにはなるのだが、万人の現実世界を変える力は持ってはいない。
「VRもいいけど、現実世界はもっといい」という、押し付けがましいメッセージを、あまりにもあからさまにスピルバーグ監督は提示する。

主人公は名声と財産と恋人を得るが、それはあくまでも個人的な成功であって、現実世界は変わっていない。
週に2日のオアシス休養日に、人類が現実を見て、環境問題や医療問題(主人公は両親が早死にしたと言う)など生産的な行動を取ることを願うばかりだ。

スピルバーグ監督は、これまでも観客の(人間の)想像力を信用していなかった。

「シンドラーのリスト」「プライベートライアン」と言う戦争映画の傑作を世に出したのに関わらず、911テロのようなことが起こり、世界に幻滅しているし、また自分の映画による影響力が低下していることを嘆いている。
黒澤明と同様に映画で平和をもたらしたいと願って、警告しているにもかかわらず、政治は彼の作品を無視し続けている。

この映画は「VRに夢中になると想像力と思考力が低下する。現実世界に及ぼす影響は大きい。」というストレートな警告でもある。

「シンドラーのリスト」や「ジュラシックパーク」がそうだったように、スピルバーグ映画は、エンディングのメッセージがストレートであり、これでもかと押し付けがましいのが特徴である。(褒めている。)

分かりやすいが故に私達は失敗しないように彼の映画から学ぶことが出来るのだ。

【スピルバーグ監督の今後への不安】
個人的な見解だが、「オアシス」を開発したハリデーと相棒のモローはスピルバーグ監督とジョージ・ルーカス監督の分身だと思っている。

ハリデーはアーカイヴされた記憶のなかで、「昔はよかった」と言っている。「昔に戻れないものだろうか。とにかくできる限りの全速力で。」と言う。

どれだけ早く過去に戻っても、すべてを再び元に戻すことは不可能なのだ。
これはスピルバーグ監督自身の独り言に感じてならない。
有り余る映画への情熱から傑作を次々と生み出していたあの70〜80年代。ピーターパンシンドロームと叩かれる前だ。

スピルバーグの「未知との遭遇」が公開された1978年は、ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」が公開された年でもあり、ここから「ルーカスとスピルバーグの時代」が始まった。

スピルバーグとジョージ・ルーカスの2人が主導したSFX・VFXを駆使した映像による映画革命は、デジタル技術とCGの進化・発展の時期と重なった。

2人は映画の表現そのものを変え、「ルーカス&スピルバーグ映画」みたいな映画が、他の映画作家たちによっても次々と作られ、興行記録の上位は、SF・ファンタジー・アクション系が独占するようになった。

私はこの映画がスピルバーグのセルフパロディにも自己否定にも、再生にも感じた。
原作小説の作者が書いた脚本が、あまりにスピルバーグ監督のオマージュに溢れていた為、恥ずかしくて一度は監督を断ったそうだが、引き受けたのには何か訳があるはずだ。

(余談だが、原作小説と違うと映画を非難する人達がいるそうだが、崇拝者に映画化して貰えた原作者アーネスト・クラインはファン冥利につきると喜んでいる。)

ラストシークエンスに登場するハラデーのように全盛を保ったままで「死」=「引退」するのではないかと私は思った。

この作品で娯楽作品から引退しない事を切に祈っている。

希望はある。
この映画では、主人公が、リアルとしての2045年の世界と、アンリアルのVR「オアシス」の世界とを往還する構造になっている。

リアルとアンリアルの並立、2つの世界の往還こそが「スピルバーグらしさ」なのだ。

思えば93年、スピルバーグはそれまで敬遠していたCGを「ジュラシック・パーク」で見事に使いこなし、映像の新時代到来を宣言した。しかし、並行してモノクロームの「シンドラーのリスト」を作った。

「宇宙戦争」と「ミュンヘン」もそうだ。

「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」と「レディ・プレイヤー1」もそうだ。

スピルバーグは自分が生み出したポップカルチャーが、マーケットとしてもカルチャーとしてもあまりにも巨大なものになってしまったことに、恐怖を感じ、逃げ出したくなったのではないだろうかと思っていた。

リアルな作品を手掛けるのだが、その反動として、彼は娯楽作品を世に送り出してきた。
そして、この作品は「ポップカルチャーの総決算」のような作品である。
「いやぁ、まだまだ若いなぁ、スピルバーグ」と思ったが、スピルバーグ監督は現在72歳。
これ以上の想像力溢れる作品を撮れるのか?という不安がある。

今後スピルバーグが「シンドラーのリスト」のようにリアル路線で人々の心に訴える作品を世に発表する事を期待する。
その反動として、再び熱い娯楽作品を世に送り出してくれるだろうから。

結びに
娯楽性とメッセージ性がある、この作品。
オマージュに喜ぶだけでなく、オマージュされた作品を見て、スピルバーグが隠した皮肉と意図を解き明かすには、更に時間がかかりそうだ。

全ての意図を把握出来ていないので、満点は出せない。
(特に鍵の意味が気になるのだが…)

私の購入したDVDには無かったが、スピルバーグ監督本人によるコメンタリー付きで、オマージュの数々が採用された意図を知りたい!