八木

20センチュリー・ウーマンの八木のレビュー・感想・評価

20センチュリー・ウーマン(2016年製作の映画)
4.7
見終わってタイトルを見て、少し考えたあと、「20世紀の一般的女性」でなくて、「20世紀を生きたある女性(が他人の人生に関わった記録)」ということかと思った。
僕はSNSをやったりブログをやったり、このような感想サイトを使って「自分はこのような人だ」とわざわざキメ顔で表現しているわけだが、僕が、1か月間各種媒体で一文字も打たなければどうなるかといえば、ネット上すべての人にとって僕という存在はそもそも認識する機会はなくなるし、多少認識していた人がいたとしても、すぐに「いなかったこと」になってしまうと思う。僕のような超のつく一般人はおろか、有名人だって、活動する媒体で名前を一時期見なくなっただけで、よくて自殺説を流してもらえる程度です。ほとんどはいなかったことになってしまう。
この映画で描かれている20センチュリー・ウーマンであるドロシアは、いなかったも同然の一般人であり、その周囲を取り囲んでいるさらに普通の人々の説明を折り重ねることによってようやく浮かび上がってくるような、「普通程度の個性」の持ち主です。それでも、ドロシアが「このような人だった」と説明するには2時間では足りないほど濃密で、人間がただ生きている状態というのは、言葉や映像で継ぎ足しがきかないものだということが伝わってきます。それは、ドロシアに最も影響を受けた人物であるジェイミーによって、ラストにしっかり重みをもって語られています。
ドロシアという人物は、その他主要人物にとって、ある時期を超えると忘れ去られてしまったような描き方をされています。40歳で生んだ子供を育てるのに四苦八苦したことだとか、感謝を示す代わりにすぐディナーに誘うところとか、カッターシャツを着てセーラムをふかしている姿とか、新しいものにチャレンジして挫折しているところとか、それらドロシアが生きたどうでもよい姿は、主要人物それぞれの人生の一場面に残っているはずなのに、発言しないSNSと同じように、ただ何となく関わりがなくなり、接点を見失っていくことで、関係者たちはそれぞれの人生を進めていくわけです。
ある人にとってある人は重要ではなくなってしまった、あるいは初めから重要でなかったとしても、ある人が確かに生きていた姿を写し取ってくれるということは、とても幸福なことのように思えました。
この映画でとても気に入っているところに、時間軸が一切前後しないところがあります。細かいところまで注意して観られなかったけど、視点が切り替わってないブロック中は多分、その人から見た光景がずっと継続してて『その瞬間』という迫力が強かったように思います。「この人から見ればこうだった」という謎解きや言い訳が効かない感じなんかも、人生や時代のうまくいかなさや魅力を表していて最高だと思いました。
八木

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