あまのかぐや

ウインド・リバーのあまのかぐやのレビュー・感想・評価

ウインド・リバー(2017年製作の映画)
4.0
少女は、零下30度の雪原をはだしで走った。
その後、少女は、10キロもの道のりの果てに息絶えた凍傷だらけの遺体で発見された。

舞台は、ネイティブアメリカンの保留地。ワイオミング州ウィンドリバー。

グーグルマップで、思わず実在のその地を検索してしまいました。

メキシコからの移民や黒人、上げていく声の大きさから社会に汲み取られ世に注目されていくのが最近の世の風向きですが、ネイティブアメリカンの声は、まだあまりに少なく、か細い。

諦めなのか、はたまた声を上げる力さえ奪い取られてしまったのか。

この映画の中の、地元の警官の死んだような目や、諦めばかりのセリフからは、救おうとか、生きようとか、生かそう、なんて気概はまったくみられない。

それは、当のネイティブアメリカンたちからもそう。大人は真面目に静かに、ただ、たんたんと生き、若者は薬に溺れるか、逮捕されて暖かい刑務所で過ごすか。

あの広大のアメリカ大陸のほぼ真ん中の山の裾に居留地を与えられ
追い込まれた民族の声は汲み上げられる日がくるのでしょうか。

登場人物は、地区の家畜を襲うピューマや狼の駆除をしているハンター。
少女の死を捜査するために派遣されたFBIの捜査官。
地元の警察官。ネイティブアメリカン。

今回のジェレミー・レナーは射手ではなく、言葉少なく無骨なハンター、コリーを演じています。彼はネイティブアメリカンの女性と結婚し、子供をもうけた白人です。しかしその職業からも、白人と先住民族のバランスを取るためのガイドであり、狩人なのだということがわかります。また彼も自分の中で精神のバランスをとったからこその生き方や信念を持っているのです。

また、仕事のためになにもないこの土地に追いやられ、いろんなバランスを崩し壊れている採掘場の白人たちが、コリーの対局にいるのです。

この狭い居留区で、先住民たちの感情が、狂気を超えて虚無の域になるまで、どれぐらい長い時間こうしてここにいたのか、と思う。

そんなところが、なるほど「ボーダーライン」の脚本の方でしたか。と思いました。

「社会派」と括られそうなジャンルですが、それだけではない、
生まれた地、人種にまつわる人々の悲哀や、やるせなさ、無情感、
それを覆い隠してしまうほどの狂気など、感情豊かにあらわれている点はとても似ているなぁ、と思いました。

外部から来て、土地のルールの厳しい洗礼を受けるFBI捜査官役のエリザベス・オルセンと、「ボーダーライン」のエミリー・ブラントは、まるでテンプレートか、と思うほど。

「数ある失踪者の統計にネイティブアメリカンの女性のデータは存在しない。実際の失踪者の人数は不明である」

そんなテロップが流れます。これは間違いなく実話なのです。

コリーの娘も、行方不明になって、遺体が発見され、死因もわからずそれきり…ろくに捜査もされずに「消えた」そんな「ネイティブアメリカンの女性」の一人でした。

コリーと、冒頭の遺体の少女の父親とで、通じ合うものがありますが、それがどうというのか、何の解決もなく、彼らはまた淡々と生きていくのだというやるせなさがあって…。

鑑賞後にずっしり石を飲み込んだような苦しさがあります。

コリーの、バランサーとしての事件への落とし前の付け方が唯一の光でした。

それはとても残忍なものでしたが「おとしまえ」または「おりあい」としか思えないし、娘を失くした父が前へ進むための「朗報」はそれしかない。

最初、アメリカ国内でも少ない上映館数だったそうですが、口コミで、しだいに広がっていったとのこと。

当代人気のマーベルのスター二人が、CGなどなし、体ひとつでの感情揺さぶってくる演技をみて、なんという名優たちをさらに魅力的に贅沢に使い倒しているのか、と改めて思いました。

でも、そのことで少しでもこの作品を知り、その事実を知る人が増えればという願いが感じられる気が。

こんなに「多様化多様化」と叫ばれるアメリカ国内で、そんな立ち位置にされている人種にまつわる社会問題のひとつ。
遠く離れた日本で知ったとして、何が変わるか、といえばそれまでなんですが。
ただ、知ることで、名もなく、死したことさえ人知れず消えていった多くの魂に届きますようにと祈るばかりです。
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