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ハクソー・リッジのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

ハクソー・リッジ(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

結論を先に言うと、メル・ギブソンらしい彼の中の「聖人」と「悪魔」が一つの世界に同居した作品。

銃も手榴弾もナイフさえも、何ひとつ武器を持たずに第2次世界大戦の激戦地「ハクソー・リッジ」を駆けまわり、たった1人で75人もの命を救った男の物語。

生きるか死ぬかの戦場で、武器も持たずに参戦する?
そんな馬鹿な話があるものか?
現実離れした前情報のあらすじに、公開してすぐには、見る気にはなれませんでした。

創作のお話だろうと思って、鑑賞したこの作品の一番の驚きは、これが実話だった❗️ということ。

キリスト教は博愛を謳っていますが、もし貴方が敬虔なクリスチャンだとして、宗教上の理由があるからと、武器を持たずに戦場に行けますか?

いくら宗教の違いはあれど、私がキリスト教徒だとしても、それは恐い❗️とても無理です❗️としか言えない。

そんな命を奪うはずの戦場で、命を救おうとした1人の男の信念と葛藤を描いた、実話から生まれた物語です。

鑑賞中は、吐き気すら催す暴力の極地である戦争の殺し合いと、味方だけでなく敵すらも救う博愛が混然一体となって私たちを襲う。
(後半は「襲う」という表現がしっくりきますね。)

鑑賞中は今どき珍しく、ずいぶんと「やりすぎ」の過剰な演出だと思いました。

見終わった後にこの作品が俳優・監督としても成功しているメル・ギブソンが、およそ10年ぶりに監督した作品だと知りました。
その時「なるほど、彼の作品か❗️」と、納得して頷いたのです。

私が子どもの頃からメル・ギブソンはスターでした。
思えば、ずっと彼を追いかけている。

彼の出演映画、そして監督映画の魅力は、寡黙で静かな精神性を持つ主人公の正義と、怒りが爆発した時のやり過ぎともいえるテンションの高い暴力の発散です。

アクション映画の主役で脚光を浴びた「マッドマックス」から、その片鱗はありました。
静かな性格の男が妻と子を殺された復讐は、何もそこまで…と思うほど、当時は過激で残忍なものに思えました。

オーストラリア映画で活躍した後のアメリカ映画「リーサル・ウェポン」でも妻を失った自殺願望のある刑事と、ホントに死にたいのか?と思うほどの激しいアクションに興奮したものです。

彼の魅力は、静かなる時のマジメで素朴な男の「優しさ」と、過激アクションから時折滲み出す「狂気」とのギャップです。

「聖人」と「悪魔」が同居しているといっていい。
その両極端な個性が1人の人間の中にいる危うさが、若い頃の彼の魅力だったと今にして思います。

「聖人」と「悪魔」が同居する彼の内面は、彼の監督作品にも反映します。
監督作品「ブレイブハート」はスコットランドの独立のために戦った実在の英雄の物語。
英雄という「聖人」の気高さと、「悪魔」が介在するような原始的暴力の戦争描写で、なんとアカデミー監督賞を受賞してしまいます。

私財30億円を投じてイエス・キリストの最期を描いた「パッション」はまさしく「聖人」と「悪魔」そのものがテーマ。
キリストへの拷問の描写が残酷過ぎると、作品への評価は賛否が分かれたが、興行的には空前の大ヒット。

Wikipedia曰く、彼は「歴史スペクタクルを監督する際は、あまり知られていない役者を起用し、当時使われていた言語や衣装、時代考察に徹底的にこだわって制作をすることで知られるが、そのこだわりは歴史的リアリティよりも彼の個人的なイデオロギーを表現することに注がれる。」らしい。

それが「聖人」と「悪魔」です。
「アポカリプト」では、素朴で家族を愛する原住民を「聖人」として描き、王政を絶対的で残虐な「悪魔」として描いた。

彼の地の歴史と信仰を捻じ曲げたためマヤ文明の研究家や関係者から激しい非難を受け、プライベートでは彼自身の飲酒によるDVスキャンダルも相まってキャリアを一時失ってしまう。

メル・ギブソンは熱心なカトリック教徒であり純潔運動家としても知られており、また双極性障害を患っています。

双極性障害とは躁病と抑うつの病相を循環する精神障害。昔でいうところの躁鬱病です。
つまり彼は「リーサル・ウェポン」のマーティン・リッグスを地で行く人物なのです。

すっかりメル・ギブソンの話が長くなりましたが、この作品も彼が内面に抱える「聖人」と「悪魔」という双極性が良く現れている作品なわけです。

ストーリーは「ブレイブハート」の変奏曲と言えます。
マイノリティへの迫害、キリストに重ね合わせ、主人公を殉教者的に描いている点、痛そうな残虐描写などは、本作「ハクソーリッジ」とかなりの点で共通点があります。

ただし主人公のデズモンド・ドスは、非暴力を貫く本物の「聖人」。

父親のトムは、兵士として戦った第一次世界大戦で心に傷を負い、酒に溺れ、母との喧嘩が絶えない日々を送っていた。

ここはまるでメル本人の自虐的反省のように見えます。

ある日、兄との喧嘩で彼を死なせそうになる出来事が起き、自らを責め、「汝、殺すことなかれ」という教えを胸に刻むデズモンド。

純心なまま成長したデズモンドは、看護師のドロシーと恋に落ちる。
歯の浮くような愛の告白と、絵に書いたような清い交際(結婚するまでセックスはしない)は、まさしくメル・ギブソンの思い描くキリスト教徒の愛の理想なのでしょう。

だが、第二次世界大戦が日に日に激化し、デズモンドの兄も周りの友人達も次々と出征する。
そんな中、教えを大切にしつつも、デズモンドは「衛生兵であれば自分も国に尽くすことができる」と陸軍に志願する。
自分も人の役に立たねばという罪悪感からでしょう。

グローヴァー大尉の部隊に配属され、ジャクソン基地で上官のハウエル軍曹から厳しい訓練を受けるデズモンド。

体力には自信があるデズモンドは、戦場に見立てた泥道を這いずり回り、全速力で障害物によじ登るのは何の苦もなかった。

だが、ライフルの訓練が始まったとき、デズモンドは断固として銃に触れることを拒絶する。

訓練シーンの描写は、スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」の焼き直しであり、驚きはありません。

「フルメタル・ジャケット」の、精神がおかしくなるような、追い詰められる過酷な描写に比べれば、本作のそれはたいしたことではない。

ただし本作が絶望的なのは、上官だけでなく組織全体が、軍事法廷まで開いてデズモンドという人間を押し潰そうとすること。

信念を口にする限り、彼の自由は剥奪され、刑務所送りという辱めを受ける。

その境遇に、同じアンドリュー・ガーフィールドが拷問を受ける主演作「沈黙‐サイレンス‐」での神父役の姿を連想した人も多いだろう。

それでも揺るがないドスの信念に、観客は敬服するしかない。

「人を殺せないだけです」と主張するデズモンド。
グローヴァー大尉は「戦争は人を殺すことだ」と告げ、命令に従えないのなら、除隊しろと宣告される。

人を殺せないが、戦争で役に立ちたいとは大いなる矛盾を感じずにはいられない。
しかし、戦争が「災害」だったらどうでしょう?
人を助けたいというデズモンドの思いは純粋なものと受け取られるでしょう。

まさしく「聖人」。
彼にとっては戦争は国に訪れた災害と同義なのです。
きっとクリスチャンであるメル・ギブソンはデズモンドに憧れているに違いありません。
デズモンドには男性版ナイチンゲールといった印象すら感じられます。

命令拒否としてデズモンドは軍法会議にかけられることに。

面会に訪れたドロシーに、銃に触れないのはプライドが邪魔しているからだと指摘されたデズモンドは、そのプライドこそが大切だと気付く。

「信念を曲げたら生きていけない」というデズモンドの深い思いに心を打たれたドロシーは「何があろうと、あなたを愛し続けるわ」と励まします。

そのデズモンドのプライド=こだわりは、これまでのメル・ギブソン監督作品が歴史的リアリティよりも個人的なイデオロギーを優先して表現しているのと同じです。

「皆は殺すが、僕は助けたい」と軍法会議で堂々と宣言するデズモンド。
それはハリウッドシステムに逆らい、自分の描きたい表現を貫くメル・ギブソン監督の思いと同じなのです。

結果、元軍人の父親の尽力でデズモンドの主張は軍法会議で認められる。

アル中の父親がデズモンドを助けるあたりは、メル・ギブソン自身の過去の禊のように思えます。

良心的兵役拒否というモノを初めて知りました。それは「宗教や良心などの個人的な信念に基づき、戦争などの兵役を拒否すること」

一切の戦闘をせず、武器も持たずに衛生兵として従軍することとなる。

時は過ぎて1945年5月の沖縄。
グローヴァー大尉に率いられて、「ハクソー・リッジ」に到着した歩兵師団のデズモンドと兵士達。

そこは先発部隊が6回登って6回撃退された末に壊滅した激戦地。

150メートルの絶壁を登ると、そこには百戦錬磨の軍曹さえ見たことのない異界が広がっていた。
前進した瞬間、日本軍による四方八方からの猛攻撃で瞬く間に倒れてゆく兵士達。

この戦闘シーンは圧巻です。

自動小銃に撃たれて血まみれになる兵士。手榴弾に両足を吹き飛ばされる兵士。
ミンチのような死体だらけ。
アメリカ軍も日本軍も内臓を飛び散らしている。

スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を彷彿とさせる残酷な戦闘。
もしかしたら、それ以上かも知れません。

私はかの映画を見ていたから耐性がありましたが、初めて見る人は過酷で残酷な描写に相当なショックを受けるに違いない。

スプラッターな描写満載です。
しかし、彼の監督作品ではいつものことです。

日本人としては、日本兵が「バカやろー」しか言わず、狂気の突撃兵のように描かれるのが少々不満ではあります。
しかし、沖縄を死守する最後の砦となる非常に重要な戦闘なので、日本兵も必死であった描写だと解釈します。

(最後に、敗戦に切腹する誇り高い日本兵のプライドが描かれるのは救いです。)

メル・ギブソン監督映画ですから日本兵を徹底して「悪魔」役として描くのだろうと思っていましたが、なりふり構わず殺し合う様はお互いに平等でした。

銃弾、爆発、火炎が飛び交う戦場で、衛生兵として重傷の兵士達を助けてゆくデズモンド。
しかし、一度はハクソー・リッジを占領するも厳しい戦況に部隊は退却を余儀なくされる。

その最中、負傷した仲間たちが取り残されるのを見たデズモンドは、たった一人で戦場へ留まることを決意する❗️

仲間が撤退する中、天の声を聞き、戦場に戻っていくデズモンドの姿に「ウソだろう❗️」と声を漏らしてしまいました。

ここからのデズモンドの救助活動も圧巻です。
いくら体力に自信があるとはいえ、戦火の中を移動し続け、負傷兵を抱えて、崖まで連れてきて、なおかつロープで崖から下ろす救助を繰り返す。

あの細い身体で…
もはや人間ワザではありません。

戦場での残虐表現が厳しくなればなるほど、それとは対照的にデズモンド・ドスの救助活動が戦場で達成した偉業として浮かび上がります。

神の声を聞いたデズモンドが一人武器も持たず、敵味方関係なく、危険を顧みず、夜を徹して一人ひとりの命を慈しむように救っていく。

一見どこにでもいるような普通の人であっても、人間は正しく信念と勇気を持つことで、大きな偉業を達成しうるパワーを内に秘めているんだ、という監督のメッセージが伝わってきます。

ラストシーンで負傷したデズモンドが、妻から贈られた聖書を手に、満足気に担架で空中を運ばれていく様は、聖書でいうところの「キリストの復活」や、「空中携挙」を強く想起させました。

やはり一番の驚きがこれが実話だということ。
エピローグは、デズモンド・ドスや兄のハル・ドス、グローヴァー大尉などのインタビュー映像へと変わり、当時戦場の様子を談話で振り返る。
知られざる実話の重みがあります。

まとめとして。
デズモンドという「聖人」と戦争という「悪魔」。
メル・ギブソン監督の人間性そのまま、双極性障害の内面のように、聖人と悪魔という両極端な描写が「やりすぎ」と思うほど過剰に施されています。

しかし、それを重箱の隅をつつくようにこれは「ウソだ❗️」といちいち弾圧する気にはなれません。

私たち個人の中にも少なからず「聖人」と「悪魔」が同居しているからです。

この作品はその両方を、極端にしかも潔く描いている作品だからです。
毒にも教訓にもならない、万人受けする昨今の映画より、よっぽど良い。

どんなにマスコミから叩かれようと、自分の心に正直な映画を作り続けるメルギブソン監督を私は支持します。

追記
今作は、この年のアカデミー賞作品賞、監督賞を含む5部門にノミネートを果たしています。
メル・ギブソンが監督として復活したと言われてますが、とんでもない。
彼はなーんにも変わってなんかいません。
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