晴れない空の降らない雨

ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

3.6
 ラインハルト・ハイドリヒというナチス高官の暗殺事件の、何度目かの映画化。彼はじめナチス関連についてはWikipediaに凄まじく充実した記事が作成されているので、興味ある向きはそちらをお読みください。本作にとって重要なことは、まず彼が親衛隊の実権を握り、国内・占領地域の反乱分子の掃討やユダヤ人の抹殺を強硬に遂行していたこと。そんな彼が、チェコの副総督(実質的には総督)に就いたこと。そしてそこで暗殺され、報復としておびただしい無辜のチェコ人が虐殺されたことである。
 ちなみに劇中に出てくる、ヒムラーがナチスのナンバー2で、ハイドリヒがナンバー3という認識は一般的なものなんだろうか。何となく知名度の高いゲッペルスとヒムラーが2,3番目に重要だと思っていた。でも、よくよく考えると、ゲッペルスは宣伝相だから外国人には関係ない。占領された国の人びとにとって、脅威は軍よりも警察だったわけで、つまりヒムラーと部下ハイドリヒが最も恐れられる存在だったのだろう。
 
 
■事件へのスタンス
 上述のとおり事態が悲惨な推移で進んだこともあり、映画はハイドリヒ暗殺を英雄的行為として単純に美化することができない。
 暗殺の実行者たちは、イギリスの亡命政府から送り出されたチェコ人たちだった。極寒の夜中に国内にパラシュートで降下した2名、ヨーゼフ・ガブツィク曹長とヤン・クビシュ軍曹が痕跡を消そうと慌ただしくしているところから始まる。いかにも慣れていない感じだ。夜の森の闇に加え、ハンディカムの落ち着かない動き。彼らはどうも手際が悪いうえに、片方は降下した時点で足を怪我しており、最初から頼りない雰囲気が出ている。
 その後、すぐに彼らはチェコの民間人から裏切りに遭う。それからも現地のエージェントの家にはただの一般人が暮らしていて(すでに逮捕されていた)、その人に教えられた見ず知らずの他人を信じるしかなくなるなど、かなり行き当たりばったりというか、危うげな道中が続く。もちろん、危機一髪のハラハラドキドキがスパイものの醍醐味なわけだが、それは卓越したスパイが高度な挑戦をするから感じられるわけで、本作の危機一髪にそういう要素はおよそない。本作の前半は手堅く撮られたスパイものだが、エンタメ的な面白味は減殺されてしまっている。
 特にクビシュの青二才としての描写は、この作戦自体の信憑性を危うくさせている。加えて劇中では、そもそもこの作戦に何の意味があるのかというもっともな疑問や、遠く離れたイギリスから命令するだけの亡命政府への不信などが、登場人物からも表明されている。そのうえ事態の急変によって、なし崩し的に作戦を決行することとなる。映画はパラシュート隊の彼らの心情に寄り添いながら、この暗殺それ自体には距離を置いて見るようなスタンスが窺える。
 
 こうした本作の一歩引いた姿勢は、記録映画的な撮影スタイルからも窺える。ハンディの多用もそうだし、16mmによるフィルムグレインの乗った画面も、そうした意図を感じさせる。チェコの美しいが人間味に欠ける風景が黄みかかっているのも歴史を意識させるためか。
 ただ、史実、それも極めて陰鬱な時代を扱うがゆえに生真面目になってしまい、画面は暗く黒潰れもあり、屋外でも曇天下の撮影が多い。いくつかのショットは写真的な見事な構図で撮られているが、基本は風景で「映画的な」グッとくる運動が出てこない。ハンディのせわしさにはちょっとイラつくし、会話シーンは工夫がなくてやや退屈だ。
 しかし、いよいよ暗殺決行となるとやはり盛り上がる。とりわけハイライトである教会での籠城戦(6時間も粘ったらしい)では、スパイものから一転してアクション映画になる。絶望的な戦いのなかで男たちが見せる友情が美しい。また、青二才のクビシュが、上官のガブツィクに支えられて成長したことが、この戦いのなかに組み込んであって感動的だった。
 しかし最もサスペンスを感じたのは、トイレにこもったレジスタンスのリーダーが、ゲシュタポが目前に迫るなか服毒自殺しようとし、カプセルを床に落としてしまい、慌てて拾おうとするくだりである。どのみち死ぬのに、すでにゲシュタポの拷問を見せられている観客は、彼が捕まる前に自殺できることを願わずにいられない。サスペンスとしても、時代のひどさを伝えるうえでも上手いと思った。
 
 
■言語について 英語とドイツ語
 ガブツィクをキリアン・マーフィ、クビシュをジェレミー・ドーナンが演じているほか、脇も英語圏の俳優が起用されている。今更な話だが、こういう映画でも英語で撮らなくてはならない状況には何だかなぁと思ってしまう。最近アメリカでは俳優の人種がよく話題になるが、そもそも英語圏でない舞台なのに英語で演じていることには誰も何も言わないのだろうか。
 
 ところで印象的なことに、本作ではドイツ側は必ずドイツ語を話している。そのうえ字幕が出ない。思い出すのは、世界史の授業でかつて習った「バルバロイ」というギリシャ語である。これは「聞き苦しい言葉を話す者」という意味で、他民族の呼称だった。そして、この言葉は英語のbarbarianつまり「野蛮人」の語源である。
 本作において、ドイツ兵たちは内面をまったく持たぬ敵として描かれている。これもまた、本作の記録映画的スタンスと無関係ではないだろう。チェコ人たちからみたドイツ人とは、まさに「聞き苦しい言葉」で怒鳴ってばかりいる軍服の人殺しでしかなかっただろうから。本作がハイドリヒ暗殺に対して距離を置きながらも、うっかりドイツ側の「人間的な部分」も描くなどという、偽りの「中立性」に逃げなかったことは正しいと思う。