140字プロレス鶴見辰吾ジラ

フェンスの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

フェンス(2016年製作の映画)
4.4
”ジャングルを行く者”

力強く哀しい物語。
父は力強く生きていた。
母は献身的に支えていた。
兄は純粋なモノにしたがって
長男は夢に正直で
次男には才能があった。

それぞれの世界にフェンスがあって
「フェンスの外で待ってろ」と吼え
「フェンスの中からは出さない」と嘆く。

主人公を演じるデンゼル・ワシントンの大きさ。
妻を演じるヴィオラ・デイビスの内から湧き上がる感情。

2時間を超えるランタイムの中で繰り広げられる狭い世界の会話劇。狭い範囲でありながら言葉と言葉がラップのように軽快に陽気に威圧的にラッシュアワーのように繰り出される。役者の強い演技力を持ってしなければ集中力は明日後の方向に誘われてしまうだろうが、役者陣営にフェンスで囲まれたようにこの世界の中に威圧的に押しこめられ、この物語の一部始終に閉じ込められてしまったようだった。

物語は力強く哀しい。
主人公の親父は身勝手で自分の信念の押し売りでエゴイスティックなクズでしかない。しかしそのクズ性に対して明確に、強烈に否定が出来ない内なる信念や意味を見てしまう。親父は黒人という身なりと早い時代に生まれたことに大きな劣等感を抱え、その劣等感・差別意識のジャングルを切り開いたことに大きな心の栄光を持っている。だからこそ、切り開かれたジャングルを、舗装された獣道を行く者を許せないと思ってしまう偏りが生まれてしまったのだと思う。高度経済成長期と公害問題のようにも思え、ブラック企業の上司と若手社員との対立にも似ていて、ゆとり世代×脱ゆとり世代の今後起きうる対立構造にも感じ取れる。努力した!苦しんだ!考え抜いた!と自己の糧になったものに対して否定的な考えが新たに生まれていくことで、時代に取り残されるような哀しさとの折り合いが付けられない不器用なエゴが”フェンス”という記号の内や外に存在することを思ってしまった。父親が語るとき、自分の拙く力強い文脈に乗せるために野球の例え話が印象深い。身勝手を象徴しながらも孤独で心を打ち明けられない思いが、息子との会話の中にでてくる”責任>好き”という考えに溢れてくることに心をエグられた。常に中二病の如く語る”悪魔との闘い”の武勇伝。笑われるようなエゴの中でミックスされ話すごとに変わる内容を嬉々として語る”しょうもない”男のプライドに塗れた生き様に脚が震えながらも否定をしたら自身の”何か”が崩れてしまうような恐怖も影を落としていることに気づいてしまった。

そしてフェンスの外側あるであろう、内側に囲ってしまったであろう妻の心情が爆発的に吐露されるある会話のシーンの素晴らしさに締め上げられるような力強さを感じた。ヴィオラ・デイビスのオスカー獲得も納得の力強いエモーションに心を打たれることは間違いない。世界を主人公側から広げる大きな役割を持ったこのシーンは忘れがたい。忘れられないと思う。それぞれの人の生き方が完全なまでに交差はしないからこそ、内なる”何か”を自己経験を引っ張り出されながら向き合う忘れがたい作品になったと感じた。

生きることの複雑さと、自分の心の置き所を反面教師的に考えさせられて、結局この親父のように閉じこもってしまうのではという恐怖も兼ねたヒューマンドラマだった。