晴れない空の降らない雨

ウィンストン・チャーチル /ヒトラーから世界を救った男の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

3.4
 16世紀伊の画家カラヴァッジョに始まるとされる、強烈な明暗対比とダイナミズムは17世紀前半に欧州で全盛期を迎え、その後は飽きられて衰退する。ところが、美術後進国のイギリスでは、産業革命期になってもこうしたカラヴァッジョ風の絵画が描かれ続けたという。
 ……といったことを思い出したのは、もちろん“Darkest Hour”の題名どおり本作が光と影を終始強調していたからだ。主人公チャーチルの初登場はこんなだった。真っ暗な部屋で、彼が擦ったマッチの火がその顔を一瞬赤く照らし出す。このモチーフも、カラヴァッジョ以前に光と闇の対比表現をおこなっていたエル・グレコの《ロウソクの火をふく少年》を思い起こさせる。
 
 かかる審美的選択には、静的な画面に動きをつけてドラマを盛り上げる実用的目的や題名(主題)との兼ね合いのほかに、「歴史なるもの」への懐古があると思われる。歴史的風格を備えた建築物(セットによる再現もありそうだが)のもつ「重み」「威厳」といったものは、その陰影によってもたらされる。そのために、明るすぎる現代的な照明を用いず、自然光や実在の照明をなるべく使おうとしている。これは議会や宮殿における窓から差し込む光線の効果的な使用から明白に窺えるだろう。
 国王との初の面会で、その光線は新首相と国王の間に差し込んでおり、両者の関係の悪さを物語る。その後、二人が昼食をとるときは、チャーチルは逆光でシルエットにようになっており、逆に光を浴びる国王の顔が映し出される。最後の両者の和解シーンでは、二人は向かい合う(対峙する)のをやめて並んで座る。二人は同じ照明を受けて平等に映し出される。このように、歴史的人物たちの関係性のドラマを、光と影がやや大仰なまでに演出している。
 他方で本作には、大英帝国の衰退をほのめかすようなムードが漂っている。第二次世界大戦とは、15世紀に始まるヨーロッパの海外進出の歴史物語のクライマックスである。その最終覇者だったイギリスは、この戦争にからくも勝利するものの、その後は植民地を失い、覇権国家の座をアメリカに奪われる。
 その意味で、冷戦の終了を待つまでもなく、イギリスにとってこれはすでに「歴史の終わり」なのだ。だから、イギリスが主人公の「歴史」の最後をかざるエピソードとして、それにふさわしい威厳を付与してくれるような、光と影のバロックスタイルが選ばれたのだろう。
 
 他にも、ほとんど全てのショットにさまざまな工夫が凝らしてあって楽しめた。エレベーターやトイレといった空間の閉塞感や、ラジオ放送時の赤いランプの不吉な感じなど。
 また、カメラがみせる大胆な動きもまた、空間の連続性を維持することで場面にリアリティをもたらすだけでなく、やはりバロック芸術的なダイナミズムの効果を生むものだろう。ドリーは頻繁にみられるが、地上から鳥瞰への大胆な移行がやはり印象的である。これには、名もなき市民や兵士と、地図や数字を相手にするチャーチルの懸隔を強調する意図も込められていよう。飛行機からの俯瞰は窓を隔てたチャーチルの主観でもあり、こちらは路上の人びとを車内から眺めたドリーショットと同類である。
 
 こうした描写の積み重ねが、人間チャーチルの変化となる終盤につながっていく。しかしまァあそこの創作は正直だいぶ白けた。あれだけならまだいいけど、あの黒人はさすがにない。筋金入りの帝国主義者チャーチルが、あんな友好的に接するとはとても考えにくい。黒人が教養ある人間だったのも恥知らずなPC的偽善でしかない。
 早い話がこれ、移民でもめている自国へのエールということか。そういう作り手の意図を、ここで一気に感じてしまった。ところが、そのために担ぎ出された国民的英雄は、昨今のPC的風潮との相性がお世辞にもよいとは言えない。両者を同時に成り立たせるために、上記のような歴史修正主義レベルのトンデモ描写を入れてしまった、といったところだろうか。
 それとも、これは完全なフィクションで、実在の人物とは一切関係ございません、とでも言い張る気か。現代史でそれは通らんだろう。
 それとチャーチルの主張は結果的にイギリスが勝ったからよかっただけで、当時の日本の軍人が言っていたことも彼と大して変わらない。日本には、チャーチルに無能呼ばわりされたハリファックスこそが必要なリーダーだったよななどと考えてしまい、本作の彼の扱いをみていて複雑な気持ちになった。イギリスにしても、史実は知らんが劇中では勝ち目がほぼないという描写だったから、チャーチルの徹底抗戦論に首肯できないのは少しつらかった。