140字プロレス鶴見辰吾ジラ

ボヘミアン・ラプソディの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
4.2
”波乱かつ破天荒”

The Greatest Show Must Go On.

フレディ・マーキュリー。
破天荒な男で、伝説を残した男。
QUEEN。
独創的な男たちで、伝説を残した男たち。

率直に言うと、本作は特殊な映画だ。

フレディ・マーキュリーの波乱かつ破天荒な人生と、それを彩る家族としてのQUEENが描かれ、それが栄光と墜落でも、光と影でもない。故き友と、その仲間たちへの救済を残して、クライマックスの1985年、ライブ・エイドですべてを解き放つ。

本筋とは変わるが、ナイツという漫才グループが8分規模で行った「寿限無(野球版)」のような構成である。あくまでQUEENの生い立ちはダイジェストで、そこにはストーリーというよりも彼らがいかに独創的で波乱な連中だったかを、出会いと青春のスパーク、怖い者知らずの成長期、成熟しつつ生まれる溝、フレディの葛藤を繋ぎ合わせて編集し、ライブ・エイドのハイクオリティな再現映像の楽曲と歌詞が、それまでのパズルのピースたちに意味を与え、映画としての意義を与えている。ライブ・エイドのシーンでありながら、本作の頭からフレディ・マーキュリーとQUEENの物語が魂の中でオーバーラップしていく様は、凄まじい熱量と、劇場ならではの音響や映像を伝い溢れてくる。当然の如く我々の目からも熱いものが溢れるのである。

これは傑作なのだろうか?

評論家は言うだろう。

冗長的
退屈
大仰で過剰
平均的

しかし本作の企画書とビジネス議論を透かして見えてしまうパズルのピースたちの中に浮かび上がるのは、フレディ・マーキュリーという男の才あるがゆえの孤独の空腹感である。冒頭から常にフレディは落ち着きがなく、人の言うことに耳を傾けず、型破りな人柄を見せつける。バンドのボーカルとして自身を売り込むシーンや、女物の服を試着するシーン、遅刻と横柄な態度に、何度も何度も繰り返す録音。そして衝突と埋められぬ孤独をパーティで補おうとする焦燥感。

これは俺たちの映画になりえるのではないか?

愛する者はいるか?
愛する家族はいるか?

そのために社会的な仮面をつけていないか?

フレディのように豪快に生きることに憧れるか?

その憧れがヒートして孤独を味わってやないか?

私には愛する者はいない。
愛してくれる者も見当たらない。
自分を出して生きようとして
いやに周りから孤立してしまい
仲間と思っている者たちの
愛する者の存在をうらやむ。

私にとっての映画になってしまったかもしれないし
誰かのための映画になることもありえる。

劇中のフレディの一挙手一投足が魅力的で官能的に映るのは、フレディの中に自身の孤独感もまとめて投影できるような隙を開けているからではないだろうか?その没入感を得られたならば、クライマックスのライブ・エイドの観客の1人は自分になり、フレディを映すカメラの視点の1つとなりえる。

仲間の存在とその救済を優先した構成だからこそ、冒頭の孤高の男としてステージに上がろうとするフレディと、クライマックスのライブ・エイド突入のシーンのイメージがブーストがかかって快楽へと変わるのではないだろうか?

私自身、愛して欲しいと願うように
それぞれ本作を見て、届いた感覚が
共感という陳腐な優等生ワードを飛び越え
我々をQUEENにする。

腐っているのは評論家のほうだ!
私たちこそがフレッシュだ!!
オーディエンスの想いが1つになって
本作をQUEENの物語に変える。
今年を代表するエネルギッシュな1本ではないだろうか?

Ayyyyyyyyyyyyy Oh!?
Ayyyy Oh!?
Ayyyyyyyyy Oh!?
Ay Oh!?
Ay Oh!?
Ayyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy Oh!?