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クワイエット・プレイスのhorahukiのレビュー・感想・評価

クワイエット・プレイス(2018年製作の映画)
3.7
ポップコーン食う人多すぎ!!
これからご覧になる方はポップコーンは控えましょう。バリバリ音が劇場中に響きわたりますよ。

恐怖演出は優れたものが非常に多くて大満足。本作の魅力はほほほぼホラー演出だと言っても良いと思います。そんで、導入もスムーズで引きこまれる。絶妙な具合に荒廃した街の光景や、コンクリートをぶち抜いて生えてる草、行方不明者を貼り出した無数の新聞の切り抜き。セリフなく映像で現状を伝えるアイデアがしっかりと練られており、スムーズに物語の世界観に入っていける。家の周りに火が灯っていくのも良かった。

製作陣の音についての誠実さというか、音のもつ恐怖演出におけるポテンシャルや可能性をしっかりと研究していることがよくわかる。極端に音を少なくすることで、肝心のシーンでの音が活きる。様々な音を使ったアイデアを盛り込み、音による緊張感をとことんまでに高めていく手法がお見事。そして登場人物たちの現状や生活スタイルをセリフ抜きで伝えるのもとても良い。

そんで、恐怖演出の中でも赤ちゃんが良かった。音を出したらダメという設定を突き詰めると子孫を残せない→種としての滅亡という結論に辿り着く。それに対する種としての営みの重要性と何よりも子への愛をも感じさせる素晴らしいアイデア。もう少しスリリングに出来たようには思うし、赤ちゃん作ろうとすることにもうちょっと説得力欲しかったけどね。

そんで耳が聞こえない長女。彼女の視点に移る時に観客への音の聞こえ方も変えてるんですよね。うまい演出なのかどうかはわかんないけど、ここも印象的でした。

そんな感じで面白かったんだけど、世間での圧倒的な高評価ほどは面白いとは思わなかったんですよね…。

まず演出がクドイ。音を極力出さないように生活する光景を序盤でこれでもかと見せられるわけですが、「音を出さない生活」しか表現してないシーンが多すぎるように思う。出しても良い音と出したらダメな音を明確に区分し、観客に提示するためにはそれなりの時間を割かなければならないのはわかるし、生活スタイルを描き世界観を描くことを重視してるのもわかるのですが、これほど執拗にやるほど必要性を感じず、「もうわかったから!」ってなった。結局肝心なところでは爆音使うわけだし、生活スタイル見せるにしても、突き詰めると粗だらけなわけだし。

人類は壊滅的な状態に陥っており、生存者はほとんどいない。というわけで本作は、極端に登場人物が少なくて、主人公家族以外の人はほぼ出てきません。数人出てきますが、出てきたとしてもそれは記号的なものに過ぎない。だからこれは主人公たち家族の個人として、そして共同体としての内面を描く寓話なはずなんです。でもどうもうまくいってるようには思えないんですよね。

モンスターに立ち向かう家族の愛。特に親の子に対する愛が本作では強く描かれてるように思います。ただ非常に形式的というか記号的で直接的なものだらけに感じて、イマイチ深く心に響いてこない。父の娘への思いがキーになるというのは良かったと思いますが。

そして、モンスターが結局何の暗喩なのかが良くわからないのが一番のハマれなかった原因。崩壊の脅威の暗喩として描くのであれば、その対象は現実的なものでなくてはならないと思うんです。例えば『聖なる鹿殺し』では、家族それぞれが抱える現実的問題を浮かび上がらせ、それを総合して悪魔的に描いていた(私の解釈では)し、同じくモンスター映画のブライアンベルティノ監督の『ザ・モンスター』では親子の中に慢性的に燻っていた不協和音を象徴するもので、膨れ上がったその感情がモンスターだった。

じゃあ、本作は何なのか。そこが見えてこない。多分製作陣には何かしらの考えがあるのだろうとは思いますが、私には読み取れませんでした。唯一それっぽかったものも、モンスターが発生した後に起こった事象なわけなんで、この家族にとって根本的なものではない。だからモンスターが物語から浮いてるんですよね、ハリボテのように。

この家族は何に怯えて暮らしてるのか、何から家族を守ろうとしてるのか、何に立ち向かい、そして何を乗り越えようとしてるのかがわからないから家族愛としてのドラマが非常に薄っぺらいものに感じてしまう。

もちろん何の暗喩でもないモンスター映画だという可能性もあるし、正直そういう風に私には見えてしまうのですが、それだったらここまで家族愛よりな構成になっているのが疑問。それだったらモンスター映画にする必要性がないように思う。セリフでなく映像や演技により関係性を描こうとする姿勢は良いのですが…。そして、漠然とした「何か」(例えば人生や生きていくことにおける漠然とした困難ごと)を前にして、家族の愛を浮かび上がらせようとしたのかもしれないけど、そうであれば単に設定を詰め切れてないだけのように感じる。

批評的に大成功してるし、今年を代表するホラー映画なので、私が読み取れてないだけで多分もっともっと深いところに魅力があるのだと思いますが、今の私にはそれを見つけられませんでした…。いずれリベンジしたいです。

とは言いつつも私のスコア基準は3.5以上が高評価なので、普通に楽しめてます(笑)モンスター映画の中で、ここまで音に意識を向け誠実に作られた作品は他にないのではないかと思います。ジョンクラシンスキー監督には是非今後もホラー撮ってほしい!

2018.9.30追記
音を立てずに暮らす=目立ったことをしないことを意味してるのかな。
出産だったり、本当であれば周りから祝福されるはずのことが逆に周りから恨みを買うこともある。そんな家庭内部のことを極端に表に出さずに生活する、あるいはそういったことを強いられる現代の家族を暗喩的に表現しようとしたんかな。でもそれだと物語とあってないところがあるように思うし、若干違う気がする…。やっぱわかんないわ。

追記の補足
以下ネタバレなので、まだご覧になってない方はスルーしてください。

共同体の中で生きるために目立ったことをしないことを良しとする現代を暗喩的に描いたとした場合に考えなければならないのは、子どもを産むことと父親の顛末をどう捉えるかということ。

私的にはどうしても、子どもを犠牲にして自分たちの好きなように生きようとする親のワガママを描いてるようにしか見えない。本作で明らかに犠牲になっているのは子ども。形式上は確かに犠牲になってんのは親なんだけど、はっきり言ってあんなものは親の自己満でしかなく、真に犠牲になってるのは明らかに子どもである。家という家族の内部にモンスターを仕向けたのは母親ということも象徴的。

親が勝手に思い描く「立派な親」像だとか、「これが子どものためになる、家族のためになる」っていう思い上がった考えが、自分をそして家族を滅ぼすということを描いたようにしか思えない。本作のラストは果たして希望なのだろうか。私には絶望にしか見えない。

本作を希望の物語として見ようとすると、チグハグに思えてしまう。希望はすでに2人もいるのだから。そして子どもにとって真に大事なのは親のいる家庭なのだから。この状況において自己犠牲を肯定することはどうしてもできない。そしてそうせざるを得ない状況に追い込んだ親を肯定することも当然できない。だからこそ本作は何がやりたかったのかわからない。現代社会が親を追い詰めそして親が子どもを追い詰めることを描いた、もしくは現代社会にうまく順応できない親が子どもを追い詰めることを描いたというのなら納得はできるけど、絶対違うよね。
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