友人から勧められ長尺バージョンを視聴。
過去の行動を自ら再現していくことで、罪の重さに気づかされてしまう。これまで胸の奥底に押し込めていた感情が溢れ出してしまう。
診療内科の療法のようだが、これは、虐殺犯が、再現映画に自ら出演する、というかなり特殊な状況のドキュメンタリー。
主人公のアンワルたちは、「プレマン」と呼ばれる民兵というかヤクザ。インドネシアの1960年代の「共産主義者」大量虐殺の実行犯たちで、今も「英雄」扱い。堂々と町を闊歩し、市場でショバ代を巻き上げてもどこからもお咎めなし。裕福。
しかし、自分には彼らは周囲からどこか距離をおかれているように見えた。みんな、彼らに会えば、その「業績」を持ちあげるが、自分はそんなに深いつきあいではない、ということもアピールしたいようだ。間違った世論誘導に関わっていたのに「殺しの現場そのものは見ていない」という新聞社経営者。過激すぎる気勢をあげるシーンは「あくまで映画用」と言ってそそくさと去る政治家。彼らを裏から支援してきたはずの西側国家、権力者たちは自らの手は汚さなかったわけだし、これからも極力、関わり合いを避けるだろう。
アンワルたちは虚勢と孤独の狭間にいる道化なのだ。
だからこそ、自分のたちの生きざまをせめて映像に残そうとして、この映画の製作に賛同したのだろう。カメラに向かって楽し気に殺人方法を教える冒頭から、リアルに吐き出すことをおさえられなくなる圧巻のラスト15分まで、彼の心情の揺れ動くさまが、台本があるかのように描かれていく。元々、殺人の方法も好きな俳優の真似をしながら考えていたというアンワルは、常に演技し続けなければ精神の平衡を保つことができなくなっているのかもしれない。
ラスト近く、大きな滝の前で天国に迎えられているような奇妙なシーンの出来上がりを喜ぶアンワル。そして、自分が責められ役になって苦しむ演技をしている様子をテレビで自慢げに孫に見せるアンワル。
歴史の教科書には決して残らないであろう一人の男の心の中にあった自分の人生の肯定への渇望と否定されることへの恐怖。そのモザイクのような心情の積み重ねは一体どこへ向かっていくのか。
自分のような未熟な人間にはまだまだわからなかった。