小松屋たから

プロミシング・ヤング・ウーマンの小松屋たからのレビュー・感想・評価

3.9
これはとても感想を書くのが難しい作品。どのような表現をしても男性擁護、女性軽視、もしくは逆に過剰な権利主張者と捉えられるかもしれないという恐ろしさがある。寄らば切るぞ、みたいな…。この切っ先の鋭さゆえのオスカー脚本賞だろうか。

ある事件で親友を失った主人公。その亡くなった被害者の母親でさえ「忘れなさい」と言っている事件をなぜ主人公がここまで引きずるのか、中々、すとんと落ちてこない。それはニーナという友人が、もちろんあえてであろうが、一体どんな人物であったか、主人公の視点、それも語り以外ではほとんど描かれないからで、観終わった直後は、何か空に向かってむやみに銃を撃ちまくる人を呆然と見ているような、自分はぽつんと置いてけぼりにされた感覚があった。

でも、そう考えている時点で、自分もすでに「加害者」なのかもしれない。ニーナの件、直接の犯人はもちろん周囲の行動も許しがたいが、「若かったから」「被害者も悪い」という言い訳は、もし自分が同じ立場になったら程度の差はあれ、使ってしまいそうだ。

ニーナとその被害を詳細に表現しないことで、これは特殊な事例ではなく、世界中で日々繰り広げられている「日常茶飯事」である、というメッセージは強烈に響くし、昨今、日本国内で実際に起きているいくつかの事件を見ても、男女間だけでなく、過去の友人、上司と部下の間の会話や行動で、自分がすっかり忘れているような些細なことでも、相手にとっては生涯を変えるぐらいのトラウマになっていることもあるわけで、人間が持つ最大の能力のひとつは忘却することだが、それは凶器にもなるのだ、そして、それは自分も持っているものだということを思い知らされた。

ただ、もしかしたら、主人公の挫折、失望、憎しみの感情がニーナを過剰に神格化してしまっているかもしれない。ニーナがこの世に戻ってくることがない以上、その度合いは増す一方で、結局は周囲の誰とも話が噛み合うことなく彼女の孤独は深化し続け、過激な行動をすることでしか、自分がこの世に存在する意義を見つけられなく無くなっていたのか。

いや、こんな、やや、第三者的、逃避的なことを考える時点できっと自分も「有罪」なのか。映画の最後、映像の奥に逃げていった人物もいた。果たしてあれは観ている自分ではないのかどうか、きちんと噛みしめなくてはならない。