140字プロレス鶴見辰吾ジラ

GODZILLA 決戦機動増殖都市の140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

GODZILLA 決戦機動増殖都市(2018年製作の映画)
4.4
”涙”

ロックンロールという言葉がある。
ロックとは何か?
という問いに明確な答えは出せるだろうか?
道は常の舗装されてはいない。
解答が1つでないなら
上から塗りつぶしても
無造作に散りばめても
愛ゆえに自分のものにしても
解答はそこにあるのである。

虚淵ゴジラよ…
火を盗んだな。

ゴジラを「KING OF MONSTR」と呼称する者たちへのしたたかな逆襲を目の当たりにしてしまったのだろうか?紛れもなく今作は私の好きな映画であった。そして、ゴジラではなくGODZILLAという領域に足を踏み入れたのだと感じた。

ゴジラは核の落とし子として日本人が生みだした怪獣である。怪獣はモンスターとは違う。怨念や執念や嘆きをもって生まれた大砲やミサイルに屈しない、まさに存在なのである。ではGODZILLAはどうか?彼の国は、神の創造の下にGODZILLAを作り、ミサイルで無様に地に伏せ、人間様の英雄として海に帰っていった。

三部作の初作として公開された「GODZILLA 怪獣惑星」を見て感じたことは、これは「シン・ゴジラ」の先にないことであり、「2001年宇宙の旅」のようなもと根源的で、SF的で哲学的に燻る火種を感じていた。核実験の最中に産み落とされた存在でなく、かつて地球に生息していた巨大生物がペルム紀の大絶滅を避けるために地球の核へ核へと潜っていったものが、ギャレス・エドワーズ版のGODZZILAということである。つまりは「怪獣惑星」の冒頭で描かれた怪獣黙示録は、地球の環境破壊による地球という生命の危機に目覚めた本来の地球の支配者の行進である。あらゆる熱核兵器の攻撃に耐え、人類を無慈悲に虐殺するGODZILLAは地球そのものなのである。ゴジラ・アースと名付けられた体高300メートルの異形こと地球そのものであり、体組織を植物状に覆った、母なる地球の化身ではなかろうか?

「決戦起動増殖都市」という2作目のタイトルを見て、感じたのは地球vs人工知能の陣取り合戦だった。増殖都市という言葉に、今作の監督である瀬下寛之の「BLAME!」の暴走した人工知能が想起される。メカゴジラというのは単なる概念でしかなく、地球と人工知能の生存競争なのであると感じた。「2001年宇宙の旅」のように人類と人工知能が闘いの末にたどり着く場所のように。しかしながらこのキューブリックの名作をなぞらえて、半ば愛憎のように生みだした作品が他にもある。「エイリアン」シリーズの前奇譚とされた「プロメテウス」と「コヴェナント」である。キューブリックに継承を許されなかった男のしたたかに「エイリアン」を自身のモノへと略奪した新たな創造主の物語に、私は打ち震えてしまった。今シリーズもゴジラではなくGODZILLAとタイトリングされていることから、ハリウッドという彼の国で創造されたゴジラを新約聖書のように書き換え、取り戻すための逆襲なのではないかと思ってしまった。

怪獣は何故に怪獣なのか?
怪獣を倒すためには自らが怪獣になるべきか?
機械としての理性か?
人間としての感情か?
天国で奴隷として生きるか?
地獄で自由へと進むか?

バベルの塔

神のもとへと導く塔を
人間は作り上げることができなかった。
太陽へと羽ばたいたイカロスは
熱で翼を焼かれ地に堕ちた。

「シンゴジラ」が日本人の集団的理性の勝利であるとすれば、今作はそのアンチテーゼであり、世界は互いの宗教、理念ゆえの統一を成しえぬからこそ滅びる生き物という皮肉にも映る。

地球をガイア理論として、歩むゴジラ。
感情に迷い、嘆き、苦しむ人類。
次世代の支配者を目論む機械。

闘いの果てに待つ上位存在は
我々の知る絵巻の住人として
ユニバースという強大さの前に交わる。

あまりにもお粗末な弾薬の浪費と、恋心ゆえの嫉妬と、本質を見失っていく愚かな登場人物を憂い、そして起動するナニメタルの外連味の乏しさ、新兵器ヴァルチャーの存在に酔った翼を広げる動作の反復。既視感のある会話劇と目的のために行動を制御された操り人形のような人類の乏しい描き方はどうかと思うが、その中で燻るゴジラへの愛や愛憎が結晶となって、ゴジラを奪った彼の国への刃となることを願う。

最後の涙のやるせなさは
ガイガーカウンターを向けられた
少女のオマージュだろうか?