140字プロレス鶴見辰吾ジラ

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

4.6
【中年豚野郎は夢見る女優の夢をみない。】

クエンティン・タランティーノ第9作目にしてレオナルド・ディカプリオとブラット・ピットが共演。あの忌まわしきハリウッドの惨劇「シャロン・テート事件」に挑む。マーゴット・ロビーがその美貌とキュートな演技でシャロン・テートを蘇らせる。

「イングロリアスバスターズ」「ジャンゴ 繋がれざる者」にて歴史の悲劇や汚点に対して映画のチカラを武器にタランティーノが立ち向かう。本作は史実には存在しないリック・ダルトンという落ち目の俳優とそのスタントマンであるクリフ・ブースがいる時点でどう足掻いても虚構なのだが、虚構により歴史を穿つというタランティーノ精神ならびにタランティーノ的な映画愛に溢れている。それこそハリウッド日常モノとなる8割の部分は着地点こそ判明している者の常に宙に浮いたような感覚に囚われてしまう。しかしこの質感はクリント・イーストウッドの「15:17、パリ行き」に似ている。イーストウッド版はキャストも現実の人物の起用をしたわけだが、タランティーノ版は虚構が歴史の惨劇を穿つことを丁寧に描いている。助長的と思われたすべてのシーンはあの夜を描いたラスト13分に異常なまでのカタルシスを持って燃え上がる。これほどまでの多幸感を味わったことないんじゃないか?ってくらいテンションが上がったし、私は劇場で体を震わせて笑っていた。幸せだったのだ。

たしかに黒人は奴隷で
ナチスは大量虐殺をした。
この現実はどデカいクソで
死んだ人は生き返らない。

しかし映画の中なら 
過去の惨劇と闘える。
あの人に会える。
心の中に生き続けさせる。

映画とは異世界モノで
映画とはマルチヴァースだ。

この現実は
老いを迎えるし
存在はとって変わられる。

映画の中なら
無限の未来があり
途方もない可能性がある。

タランティーノよ、
ありがとう!!
良い夢見れたぜ!!

本作は160分と大ボリュームだが、すべてが「シャロン・テート事件」の前振りになっていることをカタルシス爆発後に思い返すことで心の中で繋がりを見せられる。それはキャラクターがどれも愛おしく、ある瞬間にタランティーノお得意の恐怖を背負わせるからだ。

リック・ダルトンの落ち目感。アルコールに依存し、涙もろく、セリフを飛ばしトレーラーハウスで大いに荒れる。それでも子役に励まされ、己を奮い立たせ、自分を取り戻すための悪役として大立ち回りするシーンは最高に格好良い。どアップになったディカプリオの目に涙が浮かんでいるシーンは私も泣いた。

クリフ・ブースはスタントマンで日陰モノだが、己を持って生きている。肉体的にも精神的にもタフ。スタントマンという裏の存在が「ファイトクラブ」のタイラー・ダーデンを想起させるが、ブルース・リーとの決闘シーンなんていう目配せからヒッピーの村で独り立ち回るシーン(このシーンでも不穏かつ未確認な土地に足を踏み入れる恐怖演出が抜群に作品のスパイスになっている。タランティーノ史上に残るスリラースポット)、そして文句なしのハイになったあのシーンのバイオレンスは素晴らしい。ブラピといったら「ファイトクラブ」「12モンキーズ」そして本作が何より印象深い。
※個人的にはブラピvsブルース・リーのシーンでブラピが「ファイトクラブ」で魅せたブルース・リーへのオマージュシーンで対抗してほしかったな…

シャロン・テートはよくぞマーゴット・ロビー。彼女がシャロンを蘇らせ、そして劇場で上映されたシャロン・テート紛れもなく本人の出演シーンを観客と一緒になって鑑賞するシーンは、本作がもたらす虚構の魔法であった。

この世には西部劇のガンマンや時代劇の侍、超パワーをもったスーパーヒーローは存在しない。死んだ者はすべからくその存在を忘れ去られる第2の死が「リメンバーミー」でいうところ待っている。しかし皆、映画を撮ったらどうだろうか?駄作も傑作も関係なく。映画でなくとも小説や何か思い描くことは圧倒的に自由だ。たとえ空想や妄想でも愛する者は救いたい。「イングロリアスバスターズ」「ジャンゴ 繋がれざる者」では史実というマクロ的事象への対抗だったが、本作ではある女優へマクロ的視点で対抗策を講じている。そこにエントロピーを凌駕するエネルギーがあるから人は本作に夢を見て、熱狂するのだろう。もはや箱庭療法のようになるかもしれないが、本作はタランティーノが仕掛けたクリエイターの個々の誕生、もしくは継承を予見させる特異点になるやもしれない。俗に言う「なろう系作品」も現実逃避でなく、虚構で自分自身を救うセラピーのようなもかもしれない。新たなクリエイターの勃興が起きることも期待したい。それだけ本作は映画愛以上に虚構の可能性を感じさせる魔法の時間であり、マクロ的に誰かを虚構で救う希望の呈示だったのかもしれない。


「この素晴らしき世界に祝福を!」