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バーニング 劇場版のkuuのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
3.9
『バーニング 劇場版』
原題 Burning.
映倫区分 PG12.
製作年 2018年。上映時間 148分。
名匠イ・チャンドンの8年ぶり監督作だそうで、村上春樹が1983年に発表した短編小説『納屋を焼く』を原作に、物語を大胆にアレンジして描いたミステリードラマ。
ユ・アインが主演を務め、ベンをテレビシリーズ『ウォーキング・デッド』のスティーブン・ユァン、ヘミをオーディションで選ばれた新人女優チョン・ジョンソがそれぞれ演じた。

アルバイトで生計を立てる小説家志望の青年ジョンスは、幼なじみの女性ヘミと偶然再会し、彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。
旅行から戻ったヘミは、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベンをジョンスに紹介する。
ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、『僕は時々ビニールハウスを燃やしています』という秘密を打ち明ける。
そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。
ヘミに強く惹かれていたジュンスは、必死で彼女の行方を捜すが。。。

今作品の原作は村上春樹だけど、それを除くと今作品に影響を与えたと思われる2人の作家は、今日では20世紀のアメリカ文学を代表する小説家の一人としてその名を残しているF・スコット・フィッツジェラルドとヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠と個人的に思った。
今作品とこの二人の作家に共通するのは、そのテーマがしばしば答えのないまま、望まれない仙人のように思考に入り込んでしまうことです。
今作品を見てピックアップできたテーマは、
階級闘争、立証責任、アメリカの高校に通っていた人なら、この映画に最も直接的に影響を与えたと思われる2人の作家(日本の原作短編小説を除く)、F・スコット・フィッツジェラルドとウィリアム・フォークナーの作品を読んだことがあるのではないでしょうか?バーニング』とこの二人の作家に共通するのは、そのテーマがしばしば答えのないまま、望まれない仙人のようにあなたの思考に入り込んでしまうことです。

私の経験からピックアップできたテーマは、階級闘争、立証責任、性差別、孤独、嫉妬等、世代間の疎外感の研究、現代の消費主義についての寓話、心理的な崩壊と遺伝的に受け継がれた怒りのドラマ、社会経済的権利の剥奪の分析、有害な男らしさとそれに付随する女嫌いへの批判、中流階級の高級化に対する非難、顔の見えないコスモポリタニズムに徐々に取って代わられつつある伝統的な韓国への讃歌、シュレーディンガーの猫にまつわる肋骨の延長線上にあるもの。
と枚挙に暇がないほどでした。
映画を見終わった後、誰が正しいのか間違っているのか、見たものは真実と云えるのか、とても葛藤したままだったので、繰り返し見ることでもっと発見できることがあるはずだろうし、また時間を開けて再視聴したいと思ってます。
我々が知っている社会について痛烈に訴えるような、登場人物からのしつらこい質問攻めにあったよう。
今作品の舞台はとても質素で、人々の服装も見た目もとても地味ですが、同時に照明は信じられないほどダイナミックで、人によっては涙を流してしまうほど強烈な色彩のショットもありました。撮影は文字通りローキー (全体的に濃度の濃い、暗く沈んだ画面にすることで、わずかにある明るい部分をより強調する表現のこと)で良かった。冒頭、バスの中でバス停で待っている主演女優にカメラがフォーカスしているシーンがありましたが、バスが270度回転してバス停に向かう間、カメラは彼女を中心に据えていて、そのレベルの調整には驚かされましたが、映画はこのショットを他のショットと区別して強調しようとはしていません。
個人的には心に残る作品でしたしまた観たいと思います。
巧みなトーンのコントロールは並外れたもので、半分社会的現実主義者、半分魔術的現実主義者の環境の中で、多くのテーマのバランスをとっていたし、映画的暗示の優れた訓練として、観客を操作し、押し、突き、導き、騙すように、微妙に雰囲気を変えている。
今作品は、画面に映るもの、話される言葉、背景のディテールのすべてが重要であるようにできている。
あるいはそうでないかもしれない。
猛烈な知性、深いニュアンス、複雑なレイヤー、今作品は集中力が要求される作品ですが、個性的で重要な作家の精巧な作品と思います。

原作者と徒然に。
村上春樹を知らない人に、村上春樹を説明するのは難しい。
彼の作品の大ファンとまではいかないでも、日本で出版されたものから英文に翻訳されたモノも含めて多少は読んできた。
彼を読むことがどのようなものかを説明しようとすると、いつも上手くいかない。
村上春樹は、ありふれたものに意味を見出すのが好きな作家。
『海辺のカフカ』で(上巻やったかな)、
大島が『世界の万物はメタファーである。』と、大島は云ってる。
大島流(春樹流に)に云ゃあ、『投影』かな。
この作品では重要な要素と云える。
文章は解釈が分かれるところやけど、『海辺のカフカ』的に加えて書くなら、内なるものは外なるものの投影となる。
フランツ・カフカの『流刑地にて』で行なわれる、奇妙な機械を用いての死刑執行も、その細部を説明することによって、我々の置かれている現状を説明している。
言葉で直接的にイコールせず、比喩のように表すことを投影、概念メタファーと呼ぶ。
村上春樹の作品には、主人公が料理を作ったり、音楽を聴いたり、ガーデニングをしたりと、些細な作業をするシーンが多く登場する。
しかし、村上春樹の主人公たちは、小さなことに意味を見出し、小さな勝利に、また小さな困難に立ち向かっていく。
村上春樹の作品には、涅槃の境地が見え隠れする。
実際、涅槃なるものを知りませんが、あればそんなような気持ちにさせます。
村上春樹の作品には、小生が学んだ上の浅はかな知識で知る涅槃的な感覚がある。
それは、彼の散文から来るものもあるけど、フィリップ・ガブリエル(日本文学の研究者、翻訳家)の翻訳『1Q84』は、アルフレッド・バーンバウムの翻訳『世界の終りとハードボイルドワンダーランド―Hard‐boiled wonderland and the end of the world : 』よりも流れているように見える。
すべてのものに意味があるようで、あるいは文脈によって意味を与えることができるという独自の世界観から来るものも多い。
村上は、パスタを作ること、鍋を整理すること、あるいはとても上手にうんこをすることの喜び(冗談ではない)を語っているかもしれないが、本当は実存の危機を訴えている。
彼は、しゃべる猫やカーネル・サンダースやジョニー・ウォーカーの姿を見せるかもしれませんが(そう、彼の本の中には実際にそういうことがあります)、我々に形而上学の限界の限界を超えることを求めている。
村上春樹の作品は、自分の人生を見つめ直し、これまで考えもしなかったようなことに意味を見出すよう求めています。
彼の作品は人生を変え、変容させ、感動させますが、この種の文学を評価するには、正しい心が必要だとも思います。 
形而上学に惹かれる人は、たとえ答えが見つからなくても、答えを探し求めている。
食べ物にではなく、より大きな知識に飢えている。
kuu

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