せーじ

バーニング 劇場版のせーじのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.7
133本目は、TOHOシネマズシャンテで鑑賞。
休日の昼間の回、かつかかっている劇場がそんなに多くないからか、200席ほどある劇場は当然の様に満員。30代以上の大人たちで埋まった。

「シークレットサンシャイン」「ポエトリー アグネスの歌」などで知られるイ・チャンドン監督久しぶりの新作。しかも原作は村上春樹の小説だというのだから、観ない訳にはいかない。
ちなみに原作は未読、イ・チャンドン監督作品は今作が初鑑賞。

冒頭から、セリフの端々から漂う村上春樹臭と、生々しくて居心地の悪い性描写にむせ返りそうになりながら観ていたら、あれよあれよという間に引き込まれてしまい、148分があっという間に過ぎ去っていった。
しかもオチとラストシーンが衝撃的で、上映前に左隣で楽しそうに談笑していた数人の女性たちが、終了後全員真顔で無言のまま、そそくさと上着を着ていたのが印象的だった。正直そうなるのも無理はないと思う。

この作品、「偶然出会ってしまったファム・ファタールを、社会の底辺で這いつくばって生きている主人公が追いかける話」であるという意味では「アンダー・ザ・シルバーレイク」によく似ているのだが、両者が似ていても特筆すべきなのは、主人公の行動原理が全く違うというところだろうか。
「アンダー・ザ・シルバーレイク」の主人公は、まるで現実の差し迫った状況から逃避するように「彼女という妄想」に依存し、ふけっていたが、本作の主人公は、現実の状況はそれはそれでなんとかこなしつつ、ファム・ファタールそのものと"彼女"を象徴するものを、自分の身の回りからどうにか奪われないように守ろうとあがいていく。現実との立ち位置とファム・ファタールに対する求める気持ちの切実さがまるで違うのだ。結局この作品の"彼女"は、零れ落ちるように姿を消してしまうのだけれども、主人公はそこからどんどん彼女の存在を奪われまいとして、決定的な確認をしないまま「消えた理由」を状況証拠だけで決めつけていってしまう。そうして常に張り巡らされた一定の緊張感の中、出されたカードが何回もひっくり返って、場の状況がガラリと変わっていくような後半の展開は観ていてとてもヒリヒリしたし、最終的にはそれすらも意味をなさなくさせる様な展開には戦慄してしまった。
ネット記事や監督インタビューなどで、この作品のあらましは補完することができたが、鑑賞後頭にうかんだ「どう思えばいいというのか」という問いについては、今もその問いが目の前に立ち塞がったまま、輪郭だけしか見えなくてそのすべてを垣間見ることができない。一体彼らは何者で、その時何を考えていたのか、劇中ではほとんど明確に見せてくれないし類推するしかないというもどかしさが、何とも言えない気持ちにさせてくれる。…というかそもそも自分自身以外の他人との理解なんてそれくらいのものなんじゃないの…と暗に言われたような気がして、二の句が継げなくなってしまう。

もちろん、映画を観てこんな体験をしたのは初めての経験でした。
思うにこの作品は、単なるミステリーやスリラーというより、劇中登場する三人の若者の姿を通して、観た人間一人一人の生き方や振舞い方をシビアに問うている作品なのかもしれません。
そして、そういう様な事をノイズなく考えさせてくれる映画としての基本構造は、ものすごくよく出来ていると思いました。
ぜひぜひ。
せーじ

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