晴れない空の降らない雨

幸福なラザロの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
3.4
 「全体的にウェルメイドどまり」という感触で、格別なにかコメントするべきことも浮かばずというか、最近の西欧映画にありがちな作風を大きく超え出るものを感じずというか。
 もちろん、多くの人が言及しているように、ラザロ役の俳優とロケーションは特筆に値する。自分は、どんなにスター性があろうと俳優やアイドルといった存在にほぼ興味がないので、誰が何を演じていようが気にしないのだが、彼の適役ぶりはさすがに印象に残った。ただ前を見つめるときのあの表情に佇まい、裏に何の意図も隠されていない話し方など、テーマを受肉したかのような存在感だった。後者に関していえば、フィルム撮影によるざらつきは、あまり快適とは言えなさそうな南欧の田舎に合っていて好感。
 
 「最近ありがちな作風」という言葉で自分が考えているのは、たとえば出来のよい皮肉交じりのユーモア、低め安定のテンション、決めすぎない構図、技巧に走りすぎない撮影(カメラをぶれさせたり)、といったもの。これらは要するに、「自然体の」「リラックスした」(リアリズムとはまた違う)演出といいますか。
 このような抑制されたスタイルから、主義主張や情動の抑制、控え目な主題のほのめかしが観察されるのは半ば当然といえる。つまり、映画作品としてのあり方と、メッセージ性の内容・強弱とは、そう簡単に切れるものでもない、ということだ。
 
 さてその主題だが、この映画が俎上に載せたのは貧富の差というよりむしろ所有(権)それ自体だろう。冒頭の電球の貸し借りをめぐる会話から、最後のラザロの嘆願にいたるまで、何度となく所有が争点になる様が描かれていることに、そのことが見て取れる。
 ラザロがコーヒーを他者にふるまおうとし、食べられる野草を見つけ出し、教会から音楽を解き放つとき、あるいは恐らくは無意識裡にラザロに感化されたアントニアが高級菓子を元搾取者らに譲ってしまうとき、映画は、所有せずに生きることの可能性を問うている。
 したがって、私有財産の守護者たる銀行に対して、ラザロに無償で贈与されたパチンコが武器だというのも理に適っている。なぜラザロがタンクレディにこだわるのか。なぜラザロは幸福と言えるのか。その答えがパチンコである。
 
 とか書いてみると、何だか深淵な思想を秘めているようだが、本質的にかなり政治-経済的なこのテーマを扱いきれず、大した含蓄もない即興の寓話に展開をかぶせてそれっぽい雰囲気で煙に巻こうとしたようにしか見えなかった。
 もっとも我々にしたって、演説を聴くために映画館へ向かったわけではない。だが、この(種の)映画の、一見すると冷静に抑制を効かせるという被写体への距離感は、実情としては、単にリベラル文化人が途方に暮れている様を反映しているだけのことではないだろうか。
 まず、そもそも主義主張がないはずがない。主題に取り上げ、社会の底辺をあえて描いていた時点で、何らかの立場に与している。そして、世の中には作り手の政治的立場を明確に表明している映画も多数あるわけで、それをしない代わりに、あなたは何をしたいのか。
 「何をしたかったの」「何が言いたかったの」は確かに作品に対する愚問だ。しかし、上述のとおり、こうした映画祭向け作品におけるスタイル上の抑制と、情動や主張の抑制とは、おそらく1つのものなのである。本作の煮え切らないスタンスが、結局のところ本作を映画としても“弱く”しているように見える。とはいうものの、まさにそういう映画、文化人好みの材料を器用に調理した刺激の少ない小品だからこそ、一定の需要があるのだろう。