朱音

Diner ダイナーの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

Diner ダイナー(2019年製作の映画)
2.4

このレビューはネタバレを含みます

『さくらん』や『ヘルタースケルター』ではもう少し地に足がついていたな、という印象だが、平山夢明の著作『ダイナー』という独特の世界観と、グロテスクな意匠と、排他的な美学が詰まった荒唐無稽な原作を手掛けるにあたって、蜷川実花監督が思いっ切りシフトチェンジしてきたな、という作品になっている。

原作の世界観を忠実に再現するのではなく、極彩色の蜷川ワールドを全開にしてきた采配には素直に感心する。この作品は映像化不可能といわれる類のものだが、それは作品の描写があまりにグロテスクであること"以上"に、独特の世界観やキャラクター、および、インモラルな空気感を、実写で再現することの難しさがあるように思える。そういう意味で、自身の独創性を活かした世界観に作品自体をグッと引き寄せたことはある意味で正解なのではかろうか。その気概は一見に値する。


一枚絵としての美しさ。
本作における問題点は数多くあれど、大きく分けて2つだ。
それはフォトグラファーである蜷川監督の美意識を存分に発揮した、ショットや構図、色彩の美しさ、そこに集約されすぎているという点だ。恐らく監督には"撮りたい絵"が予め決まっているのであろう。その意匠に申し分はない。現代アートの巨匠・横尾忠則が美術背景を、フラワーデコレーションの東信が手掛けたこともあり、その美しさはより堅固で独創性のあるものに仕上がっている。だがひとたびその絵が動き出すと、とたんに粗が目立ち始める。映画とは静と動の交錯する、時間の経過の表現様式である。私はワンショット、ワンシーンの美しさに感嘆しながらも、これは果たして映像である必要があるのか、という根源的な疑問を意識せずには居られなかった。

そしてもうひつとつは、本作が些かナンセンス演劇の系譜を辿っている点だ。たしかにぶっ飛んだキャラクターや世界であることに違いはないが、どれも過去に鑑賞したこの手の作劇に感ぜられた所感と大差ない。例えば石井克人監督(『鮫肌男と桃尻女』『PARTY 7』等)がもっとも近い存在だろう。私はこれらの系譜を勝手にナンセンス演劇と呼んでいる。映画のリアリティラインを極度に下げた意匠、過剰にデフォルメされた演技演出、多分にサブカルチャーの引用を用いた、ダサかっこいい的な空気感のニュアンス表現、どれをとってもどこかで観たことがあるという既視感を拭えないのだ。

例えば殺し屋たちの、彼らなりの流儀や美学を高水準でエンタメに落とし込んだチャド・スタエルスキ監督の『ジョン・ウィック』シリーズがそうであるように、堅実な作りをベースに独自のワールドに引き込む手腕はこの作品には認められない。
また、本作をカルト的な作品として観たとしても、中途半端なキャッチーさとポップさ、本質的な意味での美学が、透徹されているとは言い難く、鈴木清順監督の『殺しの烙印』や晩年の『ピストルオペラ』に通ずるようなアナーキーで官能的な、唯一無二性をやりきっているとも思えない。どっちつかずの半端な作品に堕しているように感じられてしまった。

この作品は、先に挙げた作品群に比べてみても、ちょっと気を衒ってみた、ごく平凡な作品の範疇に留まっているのだ。


過剰な世界観アピールに勤しむ映画にはドラマがない。
原作と違い、この作品がカナコの成長録および恋愛ストーリーに寄っているのは明らかだが、それひとつをとっても問題なのは、カナコが何に触れ、何を感じ、どうそれを糧にして成長したのかが明確でないこと、またそれらを踏まえた極限状態におけるラブストーリーとするにはあまりに動機付けが弱すぎて唐突に感じられることだ。
詰まるところストーリーテリングとサスペンス、およびアクションに興味がない、またノウハウもない、蜷川監督にとって、この企画が最良のものであったとは到底思えない。
平山夢明の倫理を超越したグロテスクとビザールな性癖趣味全開の原作を使うのなら、レーティングはR18とまではいかなくとも、G(全年齢)に制限する意味が分からない。この決定は上から降りてきたものであることが監督のインタビューから分かる。

「凄くハードな内容の原作ですが、“年齢制限が一切つかない映画にして欲しい”というオーダーがあったので、そこが一番難しかったです。」

当然の事だろう。まず企画からして無茶なのを通り越して、この『ダイナー』を実写化する意味とは?
なのである。監督はこうも語る。

「でも、逆に規制があったからこそ色んなアイデアが沸きましたし、普通に考えていたら辿り着かないところまで行けたような気がします。完成した今は“条件”を上手に飼いならすことができたと、そんな風に感じています。」

それが成功しているように見えるのか否かは、観客一人ひとりの受け止め方によって異なるだろうが、私は疑問にしか感じられなかった。


先に述べた"多分にサブカルチャーの引用を用いた、ダサかっこいい的な空気感のニュアンス表現"について補足したい。これは主に石井克人監督作品において私が断じる勝手な解釈にすぎないが、この『ダイナー』には間違いなく通じる問題なので触れておきたい。
どういうことがというと、ニッチでカルトな原作、およびそれに準ずるアングラ感のある作品の中で、ポップでアイコニックな意匠、例えば本作でいうとガイ・リッチーやジョン・ウー、『マトリックス』シリーズのウォシャウスキー姉弟など、かつて時代の潮流となり、いまとなっては時代遅れなエッセンスを取り入れるなど、遡逆的にサブカルチャーのコンテキストへと接続せんとする演出表現であり、その最たる目的は界隈のオタクへ目配せするようなものである。

すごく意地悪な言い方になってしまうが、本作に集められた豪華なキャスト陣(しかもすぐに退場する)、世界的に活躍するクリエイターを一同に会しながらも、これら贅沢な人脈をコラボレーションとして昇華し切れず、結果として消費するということに収まっているあたりに蜷川監督の本質が現れてしまっているように思えてならない。私がこの映画を鑑賞して、真っ先に共通感を覚えたのが"インスタ女子"だ。


アクションは本当に酷かった。
そもそもスペースのない空間におけるアクションを明瞭に撮るのは難しいものだ。
そのノウハウを持っていない蜷川監督は、アクション演出の為に川澄朋章をアクション監督として招聘しているが、その結果はどうだろう。キャラクターや物との位置関係は非常にわかりにくく、エネルギーがどの方向に向かって放たれ、どう結果を及ぼすのかをまるで計算していないように見える。静と動のメリハリもない。
先にも述べたが、先ず撮りたい一枚絵の構図がバシッと決まっていて、それ自体は美しかったり、かっこよかったりするのだが、いざそれが動き出すと、途端に粗が見えるのだ。

緊迫のシーンでわざとらしくカメラを揺らすという撮り方も品がない。


監督の蜷川実花をはじめ、平山夢明、横尾忠則、東信、フードクリエイションの諏訪綾子、彫刻家の名和昇平、音楽担当のDAOKOとMIYAVI、他豪華キャスト陣、圧倒的なクリエイター人脈を用いた座組を、上手く活かしきれず、作品という質に落とし込めなかった映画と言わざるをえない。
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