朱音

ROMA/ローマの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ROMA/ローマ(2018年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

物語の舞台設定は1970~1971年のメキシコシティのコロニア・ローマ。高級住宅地で暮らす医師の一家の日常が描かれ、住み込みで働いている先住民の若い家政婦クレオが主人公となる。

彼女は監督のアルフォンソ・キュアロンが第二の母と慕うリボという乳母の女性がモデルとなっていて、映画の最後には「リボに捧げる」との献辞が出る。本作は1961年生まれのキュアロン監督の少年時代の思い出がベースになっている。
イントロのタイル張りの床を幾何学模様的に切り取ったショットが印象的だ。近くでクレオが床磨きをするブラシ音が聞こえる中、水でタイルが洗い流される様子が、次第次第に間隔が早まり、寄せては返す波のように想起される。その水面に映し出された空を横切る飛行機が独特の余韻を残す。

このイントロからシームレスに、ひとつの家族のプライベートな領域に分け入ってゆく本作、『ROMA / ローマ』は、前作『ゼロ・グラビティ』(2013年)で、ハリウッド娯楽の最前線でアトラクション型の3D映画の黄金モデルをひとつ極めたキュアロン監督が、今度は振り子の反動のように、自らのフィルモグラフィーをアートフィルムの側に引き戻したような、ある種のストイシズムへと大胆に旋回した作風になっている。


本作では後半部に1971年6月10日の「血の木曜日」と呼ばれるエチェベリア政権に抗議する大規模な学生・教職員のデモ隊と、体制側が激突した凄惨な史実が描かれる。

長期の一党支配体制を敷いていた制度的革命党(PRI)への農村部や学生からの反感が高まっていた。政府は1968年にメキシコシティー・オリンピック、1970年にメキシコ・ワールドカップを開催し、人気を集めようとするが、経済格差は拡大し、政府と民衆との対立は深まるばかりだったようだ。映画の中でも街を歩く軍隊や警察の姿が執拗に登場している。

武装集団ロス・アルコネス(鷹団 / 鷹兵団)はクレオの恋人だったフェルミンが所属する武装集団で、1960年代末に政府が結社した組織であり、政府を守るために存在し、その存在は長い間秘密にされてきた。フェルミンがクレオに「武術が俺を救ってくれた」と語っているがロス・アルコネスは軍事訓練プログラムの一環で、剣道、空手、柔道、ボクシングなどの訓練をしていたそうだ。
劇中ではどことなくユーモラスなシーンとして語られていたが、歴史を紐解くと思いのほか物騒なきな臭さが背後に漂っている。

そして先述した、件の場面は71年に起きたコーパス・クリスティの虐殺「血の木曜日事件」を再現している。
政府に抗議・反対運動をした学生を中心に120人が殺害された事件には、政府軍の支援組織である武装集団ロス・アルコネスが関わっていた。

またメキシコでは、1968年にも軍と警察による学生と民間人の数百人が死亡したとされる大虐殺事件「トラテロルコ事件」が起きている。
このことから劇中当時のメキシコは非常に政治不安の状態であったことがよく分かる。

このパートは衝撃という触れ込みに相応しい、緊張感と硬質のダイナミズムで観る者を圧倒するのだが、それでもキュアロン監督は派手さに流されがちなスペクタクルの濫用を抑制しており、大部分は淡々と静謐なタッチが続く。
このような撮影スタイルにはある意匠があったようで、そのことを監督は「おばけのようになって過去に戻った視点で表現した」と語っている。水平方向へのパンニングがくり返され、カメラワークも、常に主人公たちから離れて非常に客観的な視点から撮られているのは、「おばけ」のような視点で表現したかったからなのだ。

なおモノクロームの撮影は、キュアロンが初期からずっと組んできた同じメキシコシティ出身の盟友である名手エマニュエル・ルベツキがスケジュールの都合で招聘出来なかったことから、キュアロン自身が撮影監督を務めている。
6Kの65mmデジタル・シネマカメラ「ARRI ALEXA 65」を使用したワイドレンズでの撮影も、決して光と影のコントラストを強調した審美性ではなく、引き算の発想で世界を捉え、自然光を活かしつつ被写体の生命を澄明に伝える深度が目指されたものだ。
本作はNetflixオリジナルの作品ではあるが、当初の企画段階から配信のみの公開を意図して作られたものではなく、既成の配給会社の申し出した条件が悪く、Netflixに売り込んだという経緯がある。
つまり作品としてのルックや音響などは、完璧なまでに劇場で掛けられる事を前提としたものだということだ。本作の異例のヒット、高評価を得て、結果として劇場でロングランとして掛けられることになったのは喜ばしいことだ。


本作の特徴として挙げられるのが、極私的なノスタルジアを基調としながら、主題面などでしっかり現代性が担保されていることである。メキシコ先住民の家政婦を中心に、男たちに抑圧された女たちと子供たちが団結に至る物語。そこには解放のカタルシスがある。浮気に忙しい父親も、クレオを孕ませて逃げたフェルミンも、大人の男たちは自己の欲求に忠実なクズとして描かれ、人種や階層の問題も内包しながら、何より無意識の性差別が糾弾されている。これは端的にいうと反トランプ的なイデオロギーである。
弱者の声を巧妙に搾取するバックラッシュに抗する政治性を擁していたからこそ、アカデミー賞のような、比較的保守的なコンペティションにおいても高評が得られたのだろう。


オーセンティックな作劇に、奇跡のようなクライマックス。キュアロン監督は間違いなく映画の神様に愛されているだろう。

本作のクライマックスはカリブ海沿岸のビーチで、波にさらわれた子供を助けたクレオを家族が抱きかかえるシーン。5分ほどの長回しなのだが、家族の後ろに落ちていく夕日がまるで後光のように差し込む。むろん合成などではない。1日何度もない、おそらく一回きりのチャンスで撮られた信じられないほどに神々しい映像なのだ。このシーンを見るためだけでも本作を鑑賞する価値がある。本当に美しかった。
本作をどの系譜に分類すべきなのかは難しいが、さざ波がやがて大きくなる推移をドラマのクライマックスに当てているように、自然や事物のざわめきと呼応するスローシネマの一形態といった趣が強いのは確かだ。
イタリアのネオリアリズモの延長で捉える向きも多いようだが、初期ヴィットリオ・デ・シーカのようなドキュメンタルな写実性とも異なるように思える。キュアロン監督はもっと形式主義的で、題材に相応しいスタイルを厳密に規定するタイプの作家だ。
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