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ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語の小のレビュー・感想・評価

4.0
米国の女性作家、ルイーザ・メイ・オルコットが1868年に書いた自伝的小説が原作で、児童文学として多くの女性に知られているのかな? 私は題名を知っている程度で内容は全く知らない状態で鑑賞。

やっぱり上手いよねー、ハリウッド映画って。アメリカってお金が神で、その神をいかに効率的に手に入れるかが目標となるからか、あらゆる分野でマニュアル化が大得意。映画でも観客を飽きさせないとか、満足させる方法を組織的に確立できている感じ。アカデミー賞を狙う映画って、特にその傾向が強い気がする。

アメリカ、特にハリウッド映画のストーリーは、本作でも語られる「結婚か死」みたいなオチを求めるというような、明確さが好まれる気がするけれど、感情的にも「あー、良かった」か「えー、悲しい」のどちらか一方に振れる方が売れるというマーケティングの結果でもあるのかしら。

ということで、本作は今よりもさらに「女性が生きづらい」時代にあって、しっかりと自分の意志を持った4人女性の、それぞれの個性的な生き方が描かれていて、観ている人は誰かに共感かつ、スッキリ観終えることができることが人気の理由なのかな、と鑑賞後は思った。

でもやっぱり監督の"作家性"みたいなものがないと名作とは言い難いんじゃないの、と思い色々考えた結果、この作品はナカナカじゃないのかな、というのが今の結論。

本作について私がなんとなく考えたことを、ズバリ指摘しているのがこちらの記事。
(https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200612-littre-women-movie#intcid=recommendations_gq-jp_c3d81c8d-a438-4ea0-8370-97c00957e23e_cral2-2)

<ここでは四姉妹の誰ひとりとして漫然と生きてはいない。彼女たちはそれぞれ、自分が何を欲しているのかをとことん考え抜き、いまの自分に何ができるのかを直視して、力強く自分の意志で生き方を選択していく。>

<そのテーマを際立たせるためにガーウィグが行なった最も天才的な脚色が、四女エイミーの造形だ。画家志望で美的センスに優れ、ロマンチストであると同時に悲劇的なまでにリアリストでもある彼女は、原作よりもはるかに重層的な人物になっている。評者を含め、原作の『若草物語』に夢中になった少女たちはほぼ全員「わたしはジョーだ」と思ったものだが、そのなかの多くの人たちはこの映画を観たあと、「わたしはジョーになりたかったエイミーだった」と思うかもしれない。しかもこれまた優れた脚色だが、本作ではジョーのほうもまたある意味エイミーにあこがれ、エイミーになれないでいるのだ。>

四女のエイミーは自分勝手なトラブルメーカーで、特に次女のジョーからは嫌なヤツに見える。エイミーの価値観はジョーとは正反対で「自分の感情を尊重する」ということなのだろうけど、これをとても上手く肯定的に描いていると思う。だから、<ジョーのほうもまたある意味エイミーにあこがれ、エイミーになれないでいるのだ>と思う。

別の意味でも有名になってしまった『寝ても覚めても』のパンフレットで濱口竜介監督は作品のヒロイン(朝子)について次のように述べている。

<たとえそれが社会の批判を受けるような行動であっても、彼女は迷いなく自分自身の感情を尊重することができる。暴力的に見えるとしても、私はそれこそが誰かと真に長く続く関係を築く上での基盤だと思います。「自分自身の感情を尊重すること」なくしては、どのような他者との関係も続けることはできない。朝子はそのことを理屈抜きに理解しています。>

自分の感情(気持ち)を徹底的に考え、エイミーのように尊重する。それは<そもそも「日常」と「非日常」をはっきり隔てることができず、明日どころか次の瞬間すらどうなるかわからないような生を、果たして人は生き得るものでしょうか。>(『寝ても覚めても』のパンフレットより)という現代の問いへの1つの回答である。

本作が<現代を生きる私たちにも“刺さる”物語>(先に引用したGQの記事より)と評されるのは、原作そのものの普遍性もさることながら、やはり、単なるワガママと捉えられかねないことを、多くの人にスッと落ちる、落ちない人にも理解できるように肯定的に描いた<ガーウィグが行なった最も天才的な脚色>によるところが大きいと思う。
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