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市民Kの小のレビュー・感想・評価

市民K(2019年製作の映画)
3.5
「ロシア・ウクライナ戦争」は何故、長期化しているのか。その原因のひとつと思われる「プーチン政権が崩壊しないこと」の理由が腑に落ちる作品。

世界的に有名な反体制活動家ミハイル・ホドルコフスキーのドキュメンタリー。旧ソ連崩壊に乗じてオリガルヒ(新興財閥)に成り上がり巨万の富を得たものの、ウラジーミル・プーチン大統領に対抗し脱税の罪により10年の禁錮刑に処せられた結果、彼の中で何かが変わったらしい。

ホドルコフスキーは暴君に立ち向かう反骨精神の人のような感じかなと思って観ていくと、複雑な気持ちになってくる。ロシア国民はプーチン政権に抑圧され、渋々従っていたり、恐怖によって従わされているのではと想像した。しかし、全体として見ればそうではなく、多くのロシア国民は現状について、プーチン以前よりはマシであり、変えたくない、と考えているように思える。

映画の中で次のような言葉が出てくるけれど、これがロシアの現状を的確に表しているように思う。

<ロシアの未来像は変わらぬ政権に阻まれている。過去にとらわれているのだ。プーチンは強いロシア帝国の復活を掲げ、リベラル派は'90年代の民主化運動を懐かしむ。だが、少数のものが経済を牛耳っていた時代の話はしない。飢えや暴力、経済混乱におびえていた時代だ。その過去を鑑みて人々は現政権に甘んじているのでは?>

反体制派が打倒プーチンを掲げ、民主化を進めようとしても、<少数のものが経済を牛耳っていた時代>におびえていた多くの人々は、悪夢のような時代の再来を恐れ、プーチン政権を支持するのだろうと思う。言論の自由よりも、必要なものが手に入らないことの方が問題なのだ。

より根本的な問題は、『選択の科学』(シーナ・アイエンガー 著)を読むと良くわかるような気がする(以下の引用は同著より)。

<共産主義体制は、最終的に致命的欠陥から崩壊したものの、平均的な人が市販商品の多くを買えるだけの金を手にしていたという単純な理由から、人々は金の心配からほとんど解放されていた。(略)多くの東ヨーロッパ人が、市場経済に移行するなかで身をもって知ったように、資本主義体制の下ではそのような保証はまったくない。>

<フロムによれば、自由は互いに補完する二つの部分に分けることができる。一般に「自由」といえば、「人間をそれまで抑えつけてきた政治的、経済的、精神的束縛からの自由」を指すことが多い。つまり目標の追求を力づくで妨害する外部の力が存在しない状態だ。この「からの自由」に対立するものとして、フロムは可能性としての自由という、もう一つの意味の自由を挙げる。つまり、何らかの成果を実現し、自分の潜在能力を十全に発揮「する自由」だ。>

<理想化された資本主義体制では、社会での地位を高める機会に外部から課される制約「からの自由」が、何にもまして強調される。><これに対して理想化された共産主義、社会主義体制は、十分な生活水準を獲得「する自由」をすべての成員に保証することで、機会の平等ではなく、結果の平等を目指す。>

<ほとんどの人はこの両極の間で、何とかバランスを取りたいと考えている。だがだれしもが個人的な経験や文化的背景に基づいて、世界について何らかの前提を持っており、その前提が、両者のバランスをどこに求めるべきかという判断に影響をおよぼすのだ。>

<旧共産圏の人々は、かつて一方の極にあった社会を、もう一方の極にずっと近い、民主主義的で資本主義的な社会にいきなり転換するという、困難な課題を押しつけられた。(略)体制が変わったからと言って、はいそうですかと、長年の前提から別の信念に簡単に切り替えられるものではない。>

「する自由」の限界によって「からの自由」に大きく振れたロシアは、「する自由」を失うことの問題(<自活でなきない人たちが窮乏や苦しみを味わい、はては死に至るだけでなく、金権主義が横行し、膨大な富を持つ者が不当に大きな力を行使して、不法行為に対する処罰を逃れたり、他者を犠牲にして利益を貪り続けるために、法律そものものを自分に有利に変えるようなことがあるかもしれない。>)が一気に吹き出し、反動で「する自由」にかなり戻ってきている、ように見える。

ネット世代の若い人は「からの自由」を求める人が多いだろう。しかしそうした若者たちが中心を占め、ロシアが「する自由」の前提から信念を切り替えるには、時間がかかるだろう。たとえ今すぐプーチンがいなくなっても「ロシア・ウクライナ戦争」は続く可能性がありそうな気がする。
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