このレビューはネタバレを含みます
長尺だけど飽きさせないストーリー、なるほど~のオチ(オカルトOKの前提ですが)。で、我流解釈(私的納得感)にあたっては、マーティン・スコセッシ監督『沈黙ーサイレンスー』を観た後に読んだ『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸・共著)で知ったことが役に立った。
以下、『ふしぎなキリスト教』から引用。
<イエスは、律法を廃業して、それを愛に置き換えた。><その愛のことを、「隣人愛」という。><隣人愛のいちばん大事な点は、「裁くな」ということです。人が人を裁くな。なぜかと言うと、人を裁くのは神だからです。人は、神に裁かれないように、気をつけていればいい。神に裁かれないためには、自分がほかの人を裁かないということです。愛の中身はこれなんです。>
これをもとにすると、刑務所の看守主任ポール・エッジコムは人類代表、不思議な力を持つ死刑囚ジョン・コーフィは神に遣わされた天使(神の心を人間に伝える役目)と考えるのが、一番しっくりするかな。
神の遣いを殺したら罰せられる、とポールは考えている。しかし、コーフィはその悩みを打ち明けるポールに「(神に)私は親切をしたのだと言いなさい」と言う。だとすればポールは、コーフィの死刑を執行するから罰せられるのではなく、神の教えに反し「愛を利用して人を殺した。毎日同じことが世界中でいつも起こっている」(コーフィ)ような世の中の人類代表として罰せられるのではないか、という気がする。
いずれにしてもその罰はすぐ死ぬことではなく、反対にいつ死ぬかわからないくらい死ねないこと。何故なら、神の子のキリストであれば、その命は人類全体に見合うかもしれないけれど、ごく普通の人間であるポールでは人類全体、あるいは神の遣いとは見合わない。
だからポールは、人が人を裁かなく(殺さなく)なるか、自分が人類の最後の1人になるまで死ねないのではないだろうか。ポールを早く罰から解放してあげたかったら、人類は死刑を廃止し、戦争をしてはならないのだろう。