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王国(あるいはその家について)の小のレビュー・感想・評価

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濱口竜介監督の『ハッピーアワー』の脚本を共同で担当した高橋知由さんの脚本ということもあり鑑賞しようと思っていた作品。

しかし、2023年12月の公開はポレポレ東中野のみというのはともかく、20時からの1回上映。体力、気力低下が著しいオジサンには高いハードルだったけど、連日満員という謎にも興味を引かれ、気力をふり絞って2023年末のラス前の上映回で鑑賞。

うーん、「これが芸術だ」と言い張るモダンアートのような印象。どんな話かを冒頭に示したうえで、<脚本の読み合わせやリハーサルを、俳優が役を獲得する過程=“役の声を獲得すること”と捉え、同場面の別パターンまたは別カットを繰り返す映像により表現する>ことなどにより<人間の心情に迫ることに成功している>(公式サイト)らしい。

<演出による俳優の身体の変化に着目>(公式サイト)する本作は、過程こそが芸術、ということですかね。完成品ではなく、制作過程を作品としているモダンアートがありそうな気がしてちょっとググったところ、それっぽいことを言っている方(メキシコ生まれのアーティスト、ボスコ・ソディ氏)の記事を見つけた。
(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/284)

<(略)私の作品の本質はむしろ、制作過程における偶然性にあります。

──制作過程における偶然性とは、具体的にどのようなものでしょうか。

私が作品制作において重視しているのは「過程」と「素材」です。まず完成形をイメージしてから、どのような過程を経るかを決める作家が多いと思いますが、私は真逆のやり方をします。予期せぬ展開を求めて素材に向き合う実験の過程から、作品が生まれるのです。だから、制作する際には、最終的な作品の完成形ではなく、素材の研究や実験といった過程を中心に考えています。私にとっての創造性とは、「不完全なもの」に対する探求心なのです。

──制作活動の中心は、探求のプロセスなのですね。しかし、作品の最終形態を目にする鑑賞者に、制作の過程について伝えることは、難しいことでもあると思います。ご自身の作品と鑑賞者の関係については、どのように考えられていますか。

作品をどう見るかのヒントを鑑賞者に与えることが、私はあまり好きではありません。作品の理解とは、外から与えられる情報に基づくのではなく、内面的なものであるべきだと思っているからです。作品の意味は、鑑賞者自身の創造性に由来すると思います。

だから私は、作品を展示するときに各作品について説明しません。本当なら、タイトルもつけたくないくらいです。(略)>

「作品の意味は、鑑賞者自身の創造性に由来する」。なるほどです、よくわかりませんが…。で、濱口竜介先生は本作に次のようなコメントを寄せている(映画ドットコムなど複数サイトにあります)。

<俳優たちはテイクを重ね、やがて「これしかない」という声に辿り着く。この特権的な声が本来「OK」テイクとなるものだ。しかし、このたった一つの声は、実のところすでに為された無数の発声がその裏に張り付いた複層的なものなのだ。『王国』ではその声は示されるとともに解体されて、あらゆる声が「OK」として響く。自分が夢見たことを先んじてやられてしまったような、そんな感覚を持った。草野なつか監督の勇気と知性に敬意を表したい。>

「『王国』ではその声は示されるとともに解体されて、あらゆる声が「OK」として響く。」つまり、繰り返される同場面のシーンで、どれが一番ツボのはまる(意味を持つ)か、つまりどれが
「OK」かは「鑑賞者自身の創造性に由来する」のですね、きっと。

本作は美術館で鑑賞するように、配信で行ったり来たりしながら観て「このシーンはコレ」みたいな感想を話し合えれば楽しいかも。しかし、創造性が乏しく、話し相手もいない自分はと言えば…。
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