朱音

ジョーカーの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

すべてジョークなんだ。笑えるだろ。


バットマンの宿敵が誕生するまでの経緯を、独自のストーリーで描いた本作、『JOKER』は何故こんなにも人の心を鷲掴みにし、ざわつかせ、娯楽作品の枠をはみ出して社会を騒がすまでの存在となり得たのか。

世界興行収入がR指定映画では初めて10億ドル(日本円にして約1150億円)を超え、第76回ヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映され、金獅子賞を受賞、第92回アカデミー賞では、作品賞、監督賞、脚色賞を含む最多11部門にノミネートされ、ホアキン・フェニックスが主演男優賞、ヒドゥル・グドナドッティルが作曲賞を受賞した。

その一方でこの映画は作品外にも様々な波紋を広げている。アメリカでの公開に際しては、警察や陸軍が警戒態勢を強化するという事態にまで発展し、社会的責任をめぐる内容への賛否の声、製作サイドや巨匠監督の発言が物議を醸し、使用楽曲に対する問題提起が生まれるなどなど、異例の大ヒットを遂げる中、様々な角度から騒動が発生しているのだ。


本作のもっとも顕著な特徴は巨匠マーティン・スコセッシ監督によるロバート・デ・ニーロ主演の『キング・オブ・コメディ』(1982年)や『タクシー・ドライバー』(1976年)をはじめとするニューヨークを舞台にした犯罪映画の意匠を積極的にオマージュし、再構築した点にある。当初、製作にスコセッシが参加するはずだったことや、デ・ニーロ本人が本作に出演しているところからも、その志向は容易に読み取れる。

このアプローチは例えばクエンティン・タランティーノ監督や、ニコラス・ウィンディング・レフン監督などの作風に近い。犯罪映画を中心とする既存の作品の要素を解体して、抽出し、新たなものを構築する"ポスト・モダン"的な取り組みがそこに存在する。多分にアート的なコンテキストを取り込んだ本作を、多くの評論家が無視出来ないのはそのためであろう。一方で本作には先述した通り、暴力や殺人を美化する内容、精神疾患に関する問題があるとされた描写から、評論家の間でも賛否両論になっている。


「カリスマ的な悪」ではなく、「ひとりの人間」として描かれたジョーカー。

監督のトッド・フィリップスはこう語っている。

「コミックスは全く参考にしなかったんだ。それに関してみんなは怒るだろうね」

DCコミックス版の、あるいはこれまで制作されてきたバットマン映画における悪役ジョーカーとは、まったく違ったジョーカーを作り上げたと明かす監督。そこにはジョーカーというキャラクターを独自の視点からみたフィリップス監督のある思いがあるという。

「僕たちは、ジョーカーみたいな男がどう誕生するのかという視点で(ジョーカーを)描いた。それが僕にとって一番興味深いことだったからね。もはや、僕たちはジョーカーを描いているとは言えないかも。(僕たちが作っているのは)ジョーカー誕生の話だから。あるひとりの男の話なんだ」

そうして誕生したのが、アーサー・フレックという人物だ。従来のような突き抜けた悪の美学と、明晰な頭脳、サイコパスの性質を併せもったキャラクターではなく、複雑な心理をもち、善良な存在にもなり得る、ひとりの「人間」として描かれているのが特徴的だ。主人公の心理の揺らぎを主軸としたシェイクスピア以後の"近代文学"的な価値観を有し、転落してゆく様は太宰治の『人間失格」や、平野啓一郎の『決壊』などを想起させる。
そこは再生の糸口などなく、絶望に喘いで、ただただ堕ちてゆく姿と、同時に悲劇から逆説的に生まれる一種の高揚感や神聖さ、すらも映し出している。

そこに加えて、大量生産のための機械的労働によって人間性を喪失し、狂気に走るという内容のチャールズ・チャップリンの喜劇映画『モダン・タイムス』(1936年)のイメージを投影させるとともに、社会保障の打ち切りによる精神的な病の治療の中止という事情を描くことで、ジョーカーという悪が、貧富の差や、弱者に対して酷薄である環境が生んでしまった副産物であるという見方も用意されており、物語は社会派作品としての存在意義まで主張している。

ただここで興味深いのが、監督のトッド・フィリップスは『ハングオーバー』シリーズ等でも知られる、もともとコメディ畑の人間であるということだ。
シリアスでシビアな現代社会、相互監視、コンプライアンスからの炎上問題など、様々な要因で本職の"コメディ"作品が作りづらくなっているという監督の嘆きが、本作をこうした作品たらしめたという要因になっていると言える。

本作で、繰り返し用いられるのが"悲劇"と"喜劇"の逆転現象であり、同時にそれが各個人の主観によって決まるという言説だ。
チャールズ・チャップリンの言葉を引用するなら、
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」
である。これは劇中アーサーが母ペニーを殺害する際に「自分の人生はずっと悲劇だと思っていたが、実際には喜劇だったよ」という似た台詞を口にしている。またマレー・フランクリン・ショーに出演した際にも同じ内容の演説をぶっている。

この問題はフィリップス監督の現状と密接に繋がっている。"喜劇"を撮るのが難しいのなら、いっそのこと皆が共感し、コンプライアンス的にも問題がクリアとなりやすい作品、つまり"悲劇"を作ればいい。ただし、先のチャップリンの名言にもある通り、物事が"喜劇"か"悲劇"であるという点は、あくまで主観的なものにすぎない、と付箋をした上で、だ。

チャップリンはこうも言っている。

「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされたときには、絶望するか、さもなければ、"哲学"か"ユーモア"に訴える」

人生のどん底に突き落とされたとき絶望するのは当然として、そこから「人はなぜ生きるのか」みたいに哲学的になったり、ユーモアの方向に行く場合もあるのだと。

また哲学者のキルケゴールにもこういう名言がある。

「ユーモアのなかには常に苦痛が隠されている」

こうしたシニカルでアイロニカルなものの見方はアーサーの身に起きた出来事に対する、彼のリアクションがまさにそれである。もはや"悲劇"を悲劇としてみられなくなった人間の末路がそこにはある。


社会を蠱惑するアジテーション映画。

格差社会が広がり、劣悪な環境下での不遇の中、どん底に突き落とされた人間による、"犯罪"という"異議申し立て"が本筋の意匠である。こうした文脈はクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008年)にも描かれていた。アメリカの同時多発テロからイラク戦争までの社会背景を象徴的に物語に盛り込み、正義を信じる人々がジョーカーの企てによって悪に転じたり、倫理観を見失ってしまうという内容である。だが、最終的に人々の理性がジョーカーの企てを打ち破った『ダークナイト』は、際どいラインを往き来しながらも、決してヒーロー映画の型を破ることはなかった。
対する本作、『JOKER』は『タクシー・ドライバー』の結末がそうであったように、ヒーローと悪の違いを無効化してしまうような価値観を持つことで、ジョーカーという存在を従来のバットマン映画が有していた制約から解き放ってしまったのだ。

フィリップス監督は、ワーナーに企画を持ちかけたとき、「狂ったアイデア」だとされ、当初は相手にされなかったと振り返っている。

こうした価値観の転覆と、感化、伝播は『タクシー・ドライバー』や『JOKER』といった作品が持つ危うさである。映画の考察とは関係がないので詳細は省くが、先述した「ダークナイト』も含め、このような映画には多くのフォロワーが生まれる。それはそうした価値観を共有することで、自分という存在を社会の中に見い出せない人間にとっての、ある種の救いを得られる機会であり、同時に、自分自身を作品に投影し過ぎるが故に、自己の倫理観をそれらの作品に委ねてしまう危険性をも孕んでいるのだ。だってそうだろう、アーサーがそうであるように、誰の心にも昏い闇はある。誰だって光を求める心はあるものだ。そしてこのような作品は得てして、そういった心理の縁にピタリと寄り添ってくれるものだ。

その上で、「貧困にあえぐ平凡な市民が銃撃事件を起こす」という本作の内容は、挑発的なまでに不謹慎だといえよう。さらに本作は、ジョーカーに影響されて、虐げられた市民たちがピエロ姿になったり、暴力行為に及んだりする内容を描いている。こうしたアジテーションの作品は例えば、チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンを信奉する"会員"たち、呉勝浩の『爆弾』に出てくるスズキ・タゴサク、平野啓一郎の『決壊』における"悪魔"を信奉する"離脱者"たちの姿に重なるものがある。

つまり、フィリップス監督は本作の危険性を十分認識していて、それをあえて利用しながら、物議を醸す方向に自ら突っ込んでいっているのである。
例えばそれは、アーサーが初めてジョーカーという存在に成り代わったとき、いつも重く、澱んだ足取りで登ってくる階段を、軽快なステップで踊りながら降りてくる、劇中の印象的なシーンにおいて、小児性愛者で児童虐待の罪を犯したことで服役しているゲイリー・グリッターの楽曲をわざわざ使用するという姿勢からも分かる。

とはいえ、本作はこのような危険性が内在するからこそ、善悪を超えたところで社会問題を描くことを可能にしたということもたしかではある。

では、本作が描こうとしているのは何なのか。
それは、何の実績もないアーサーが、テレビのコメディー番組で脚光を浴びるという、甘い夢想に浸る癖があるところから分かってくる。特別な人物になりたい、何かを成し遂げて脚光を浴びる存在になりたい。そしていつか、自分を理解してくれる理想の伴侶とめぐり逢いたい。そのような願望こそが、過酷な日常を耐える孤独なアーサーの精神的な最後の砦となっていたのだ。

アメリカのみならず、格差社会が広がり続けるいまの世の中にあって、こうした"幸福観"こそは現代の宗教である。メディアがこぞって演出する"普通の幸福"は虚像のようなものであり、貧富の差が拡大する社会のなかで、まともな医療にもかかれない貧困層には、それすらも縁遠い。ただ生き抜くことですら、ほとんど苦行に近いものになっているのが現状だ。死は救済であり、自己実現は思い込みや狂気の中にしか存在しない。
加えてアーサーには持病があり、周囲の人間に気味悪がられている。対人関係にも大きな問題を抱えている彼にとっては、もはや"他人を幸福にする"という生き甲斐によって、自分の生を実感するということですら困難な状況なのだ。アーサーの苦難の、その最果てにあるのは、"暴力"によって社会と関係を築こうとする、倒錯した考えである。


「自分の存在は世界にとって何の意味もないのではないか」という絶望的な問い。
『タクシー・ドライバー』の脚本を手掛けたポール・シュレイダーは、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルによる小説『嘔吐』からインスピレーションを受けていたといわれる。これは、自分という存在そのものに"吐き気"をもよおす嫌悪感を抱き、狂気のなかで苦悩する、ある研究者の物語だった。

これは、ある種の人々にとってカリカチュアライズされた現実そのものだといえるだろう。トラヴィスならびに本作、『JOKER』におけるアーサーもまた、どうにもならない現実の象徴であり、彼らが自身を取り巻く環境や、自分自身に対して苛立ちや焦燥感を募らせてゆくその様を、そして何か大きなことを成し遂げたいという、使命感のようなものに突き動かされ、銃を手に、悪事に快感を見出す様子を、本能的にやばいと感じる観客は少なくないはずだ。
つまり、凶悪な犯罪を行うまでに至る彼の狂気と、そうしたパーソナリティを抱えた観客の感情が部分的に接続されてしまうのである。

社会の中で何も成し遂げられなかったアーサーは、隠されていた自分のルーツを追うことで、自分という存在に何かしらの価値があるはずだという一点のみに望みを繋ぐようになる。その裏にあるのは、「自分の存在は世界にとって何の意味もないのではないか」という、絶望的な問いであり、哲学の分野における"存在的恐怖"と呼ばれるものだ。社会の状況が悪化し、何の幸せも生き甲斐も得られず、居場所のない人々が困窮とともに襲われるのは、このような人間の根源的な恐怖ではなかろうか。"幸福"の神にしがみつく人も、旧弊の価値観に寄って他者を排斥しようする人々もまた、こうした恐怖心に囚われているのかもしれない。本来的に、全ての物事に意味などない、と切って捨てるには人は多くのものを抱えすぎている。


本作には、そのような人々が暴動を起こし、悪事を働くようになる事態を解決へと導くような、ヒーロー的存在はいない。そしてその地獄のような情景を作り出したのは、現実におけるひとつひとつの裏切りが要因にある事を、この映画は一連の描写によって説明していたのである。

アーサーは、「自分が狂っているのか、世界が狂っているのか」とつぶやくが、それはおそらく相互的なものなのだろう。アーサー個人の問題と、問題のある社会環境が共鳴し合うことで、狂気が肥大化していったのだ。

かくして世界は燃え、何も持たなかったひとりの男が自己実現を果たす。衆人に担がれ、獰猛な喝采を浴びる。偽りだろうが、昏く、澱んだ光であろうが、それはもう、彼にとって何ら意味はない。この結果だけが全てである。母親に(皮肉にも)ハッピーと呼ばれていた男は、母親の期待通りに、彼の笑顔で周囲の人間に喜びを贈ることが出来た。これこそが本望であり、彼にとっての自己実現なのだから。



すべてジョークでした。

これまで社会問題に鋭く切り込み、持たざる者の空虚と絶望を内包したルサンチマンを、そして"暴力"によって社会にその存在を認められるという、倒錯した欲望の"自己実現"を、骨太に描いてきた本作だが。そのすべてがラストのある展開によって覆される。

フィリップス監督はこう語る。

「あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です。この映画には、いくつかの笑い方が登場します。アーサーの苦しみから生まれる笑い、彼が大勢の一員になろうとするときの偽物の笑い──これが僕のお気に入りなんです──、そして最後にアーカム州立病院の部屋で見せるのが、唯一、彼の心からの笑いなんですよ。」

ひとしきり笑い終えた"男"が、訝しむ精神鑑定医に向かって呟く。「ちょっとジョークを思い付いて……。」

そう、つまり映画の99%は"その男"の妄想の物語であり、最後の笑いはその妄想を思いついた"男"の笑いなのだ。

勿論、劇中それを明言するようなシーンはない。しかし観客にいくつか示唆するような描写が散りばめられているので挙げていきたい。


例えばラストシーン、それまで緑色だったはずの彼の髪色が黒に戻っている。
劇中、アーサーとジョーカーを明確に分かつ"決別"として、自分の髪の毛を"緑"に染めるシーンがある。あのシークエンスを境に、ここまでがアーサーの、そしてここからがジョーカーであると観客に説明している。暴徒に崇められる、悪のカリスマ、私たちがよく知るヴィランとしての、ジョーカーは"緑"の髪色なのだ。
つまり、ラストシーンの男と、物語の99%のアーサーは別物である事を示唆している。

医者から染め直されたのだろうか、あるいはあの事件よりだいぶ年月が経っていて、染めた髪色が自然に戻ったのだろうか。いやそんな不自然な事があるわけもない。

物語上、髪の色が元に戻るということはジョーカーからアーサーへと回帰してきたことと同義だ。しかし、直後に彼は精神鑑定医を殺害しているのだ。これまでアーサーは自分に実害を及ぼしてきた人物のみを殺してきている。劇中、唯一彼に優しかった小人症のゲイリーを逃がしていることからも明らかだ。作中明言こそされていないが、恐らくソフィーとその子供も殺害はしていない。ここで無害な精神鑑定医を無意味に殺すことには違和感を覚えるはずだ。これまで描かれてきたアーサーとの間に、大きな矛盾を生んでしまう。


別の例としては、アーサーが観ているはずのない"光景"を回想している点だ。
手錠に繋がれた"男"が、煙草を吸いながら、目の前の精神鑑定医に笑っている理由を聞かれる。
その時に、ひとつの回想シーンが挿入されるのだが、これがまた矛盾を孕んでいる。

その回想シーンは「幼少期のブルース・ウェインが、暴徒に射殺された両親を目の前にたたずんでいる」というものだが、この現場はアーサーが見ているはずのない光景なのだ。

暴動の最中に起きた、ブルース・ウェインとその家族に起きた悲劇。ひとりの無名の暴徒によって引き起こされたそれは、旧来のバットマン・シリーズを追っているファンとしては嬉しい演出なのだが、思い出してほしい、当のアーサーはその時には、彼を護送していたパトカーに向かって突進してきた救急車両が衝突し、気を失っていたのである。
またアーカルム精神病院にて収監されていた母ペニーに対して行われた尋問のシーンを、彼が克明に回想出来たという疑問もここで解消される。

ウェイン一家が襲撃される場面以外はアーサーによる主観が映像の常であった。これも伏線のひとつだといえよう。その犯人であるなら見たかもしれない光景を、ラストシーンのアーサーがはっきりとした映像で回想しているというのは理屈が通らない。

つまり、ブルース・ウェインの両親射殺も、アーサーの妄想であることが示唆される。その事件自体は旧来のバットマン・シリーズにおいては繰り返し描かれてきたが、本作で描かれた"あの時"ではないのだ。
そもそも、これまでのシリーズを知るものならば、バットマン=ブルースとジョーカーの推定年齢差がそれ程にないことは周知だ。本作のように30代後半から40代とみられるアーサーと、幼少期のブルースの年齢差が事実なら、彼らがバットマンvsジョーカーとして相対する頃には、ジョーカーは既に老齢になっていることになる。これもまたおかしい。


また、劇中に出てくる時計は11:11しか指していないこと、地下鉄でウェイン社の社員3人を射殺した際の発砲数が、銃の装填数よりも多い、といった仕掛けも指摘されており、映画内で現実として描かれていたことの非現実性が浮かび上がってくる。本編のほぼすべてが"この男"の妄想とすれば合点がいくところがある。


『ダークナイト』のジョーカーは自分の口が裂けている、その理由を度々語って聞かせるが、その内容は話す相手によってバラバラで一貫性のないものだ。つまり実態は当の本人にしか分からないことであり、その素性は頑なに隠されてきた。それがジョーカーという存在に感じる恐怖であり、またミステリアスな魅力でもあるのだが、実は本作でもそのルールは忠実に踏襲されていたのだ。


つまり『JOKER』はバットマンの宿敵ジョーカーの誕生を描いたオリジンではなく、そのパロディだったということになる。
先に挙げたマーティン・スコセッシ監督の作品群に倣うように、本作の物語も1980年代のニューヨークに模した架空の都市、ゴッサム・シティが描かれている。意匠として美しくも頽廃的なヴィジョンだ。
だが、本作で描かれたこと全てが"男"の妄想であるのなら、精神病棟でのシーンにおける"いま"は現代なのかもしれない。先程から"男"と呼称している通り、アーサー・フレックなる人物は存在していないのかもしれない。ひょっとしたら、バットマンというヒーローすら存在していないかもしれないのだ。

先に紹介した監督の「あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です」というコメントの意味がはっきりしてくる。

フィリップス監督はこうも語っている。

「私たちの頭の中では、このストーリーは1970年代後半から80年代初期の設定です。これには多くの理由がありますが、主な理由はDCユニバースから切り離すため。今までの映画で観て来たジョーカーと、このジョーカーが共存することは避けたかったのです。そのため意図的に、すべてその話が起こる前に設定しました。」

これはDCEUの他のユニバース作品群との差別化を図るということ以上に、先に述べたような考察や見解が成立する可能性がゼロではないことを示唆しているように感じられるのだ。

つまり、この映画は"バットマンの系譜"であると鑑賞者が信じるほどに"すべて妄想の話だった"と理解することが難しくなる構造になっている。ここが本作はパロディなのだと、私が評した点である。


それにしても何て挑発的で不謹慎な映画なのだろう。映画ならではの稀な体験が本作にはある。心の底から感情移入し、涙を流した。そのキャラクターに最後の最後で裏切られるという体験。
「騙された気分はどうだい?」
というのはセックス・ピストルズのラスト・ライブにて、ジョニー・ロットンが観客に向かって言い放った言葉だ。


最悪で美しく、力強い映画。
トッド・フィリップス監督はこれまでのフィルモグラフィの中で、とことん下品なキャラクターの、下品な振る舞いを、下品なコメディを、上級の映像センスでもって美しく、品のある作劇で描き続けてきた。
本作でもその技巧は遺憾無く発揮され、非常に研ぎ澄まされている。地を這うようなカメラワークと、ヒドゥル・グドナドッティルが手掛けたチェロの中低音がアーサーの黒い情動にピタッと寄り添う。アーサー・フレックの悲惨と表裏一体の優雅さに魅了され、彼の歪んだ自己実現に極上のカタルシスを得る。その一方で観客を含めた、社会全体を嘲笑うような強かさをもこの作品には込めている。私はその全てに感服し、圧倒されてしまった。
嘘の中に真実を混ぜると信憑性が増すというのは、よくいわれる言葉だが、本作は嘘そのものを人間描写に富んだ、極上の犯罪ドラマとして描き切ることで、その信憑性をより堅固なものにしている。それでこそ『JOKER』の映画に相応しい。
朱音

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