このレビューはネタバレを含みます
公開から約10日しか経っていないにも関わらず、すっかり出遅れ感を感じてしまう超話題作。
僕も本日観てまいりました。これで指を加えながらスルーしてきた皆さんのレビューも、ようやく読ませていただくことができます。
今日に備え予習をバッチリして来たつもりですが、作品を観る前はそれが仇になるかと心配でした。今までも知識をつけ過ぎて失敗した例が多々あるからです。
もう一つ懸念を感じたのは、あの「ダークナイト」での"ジョーカー像"が損なわれてしまう不安でした。あのジョーカーの人間性を描くことに意味があるのか?と、つい考えてしまうのです。
その心配は序盤で拍車が掛かりました。ジョーカーには母親が居て、"アーサー"という名前が付いていたからです。ムムム?です。
母親が居て、名前がある。人として当たり前と言えば当たり前なのですが、これほど見事な人間性の施しをジョーカーに与えてしまっていいのか?と心配になってしまいます。
しかしその心配も直ぐに解消されました。母親のことも、名前のことも、全てを蹴散らしてしまうアーサーの圧倒的な孤独感。母親の存在ですらアーサーの孤独を掻き立てる要素となり、誰からも呼ばれなくなる名前なんて全く意味がなく、ないものと同じです。
こうしてこの作品は一つ一つ僕の不安を取り除いてくれます。一つずつ、丁寧に丁寧に…
この作品はアーサーというキャラクターの特異さを「キング・オブ・コメディ」のパプキンの引用や、突然笑い出すという精神疾患性の奇病を用いて色濃く描いています。
妄想狂と笑い癖の精神疾患。二つの奇病を併発する人間なんて、きっとジョーカーしかいないはずです。この設定を施すことにより、アーサーの人間性は見事なくらい破綻して行きます。
特にアーサーが一般の人と決定的に違うのが笑いのツボ。あの極端に違う笑いのツボは、普通の人見ている世界が違うということ。
終盤でジョーカーはパトカーの中で、大規模な暴動を眺めながら笑います。それはあたかも「ダークナイト」へのオマージュにも見えますが、小説「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデン・コールフィールドのよう。散々世間とのズレを皮肉んだあげく、その彼の心にしか見えない、この世の美しい光景を見ているようです。
そして「ライ麦畑でつかまえて」はホールデンの一人称で物語が語られていますが、今作も徹底したアーサーの一人称で物語が語られています。
しかもその表現はセリフよりも彼の表情や行動の方が雄弁に語り、その仕草や行動を見逃さないよう、自然と物語に陶酔してしまうのです。
アーサーからジョーカーまでを作り上げる緻密なシナリオ。それをコツコツ積み上げる繊細な演出。それらを完璧に理解し演じきったホアキン・フェニックの演技力。どれも素晴らしかったと思います。
しかし2、3個だけ苦言を言わせてもらえば…
まず、ジョーカーの犯罪者としてのポテンシャルを描いて欲しかったです。アーサーが殺人を起こせる狂気は描けたものの、彼の犯罪者としての資質が全く描かれていません。
「ダークナイト」でジョーカーがあれ程の悪役になれたのは、特異なキャラクターだったことはもちろん、ずば抜けた犯罪センスを持ち合わせていたからだと思います。
誰よりも先を読み、誰よりも先に行動する犯罪センス。それは、人が何に怯え、人は何を求め、人は何に狂気するのか、そういう人の弱さをジョーカーが知り尽くしていたから出来たのではないでしょうか。
今作でアーサーは笑いについて勉強します。それが人を知る術というのなら、いかんせん彼は人と笑いのツボがズレているのですから、人を知るレベルには到達しないと思うのです。
そして次の苦言は、ジョーカーの特徴でもある、顔の傷にまつわるエピソードも入れて欲しいと思いました。それでこそ、よりアーサーの狂気が増すのでは、と感じていたからです。
とは言え、ここまではの二つは軽い苦言です。別に「ダークナイト」を継承する必要はありませんし、明らかに設定が違ったところで別に何も問題はありません。
僕が一番言いたい苦言は、最後の白い部屋のシーン。この最後のシーンを観て、僕の心は一気に覚めてしまいました。
なぜあのシーンを入れたのでしょう?
今作の監督は「ハング・オーバー」のメガホンを取ったトッド・フィリップス監督。
「ハング・オーバー」は最後の伏線回収が秀逸過ぎるとても面白い作品でしたが、ことこの作品に於いて、あの伏線回収は全然いりません。オシャレでもないし知的でもない!
僕が感じた最後の精神病院への不信感は以下のとおりです。
今作での終盤、マーレイ殺害後ジョーカーが捕まりパトカーで移動している最中暴漢たちが事故を起こしジョーカーを救い出します。そしてジョーカーはボンネットに上がり、自分の存在感を見せつけます。悪のカリスマの誕生です。
そして場面が変わり、精神病院のシーンに移ります。そこでジョーカー腕には手錠がかけられています。
ここで僕が感じた矛盾です。この精神病院のシーンが現実だとしたら、悪漢たちに解放されたはずのジョーカーがなぜ手錠をかけられた姿で精神病院に居るのでしょう?
それと、あの事故のシーンの一連でもう一つだけ感じた不自然な点があり、それはいつの間にかジョーカーの手錠が外されていたことです。マスクを被った悪漢たちがジョーカーの手錠を外したシーンなんて一つもありません。
その矛盾や不自然さから考察し物語を繋げていくと、パトカーの移送されていたシーン(A)までは現実。事故のシーンからジョーカーがボンネットに上がり悪漢たちのカリスマになるまで(B)が妄想。そして精神病院の白い部屋のシーン(C)からは現実となります。
もし仮に、この作品を(B)で終わらせていれば、少しの不自然さを感じますが、(A)も(B)も現実の話になり、あの瞬間からジョーカーが誕生するということになります。
しかし、この物語に(C)を足せば、(B)と(C)との繋がりに矛盾が生じます。ここで(C)を現実世界と捉えたら、必然的に(B)が矛盾していることになり、この作品の下敷きに使われた「キング・オブ・コメディ」の結末と合わせれば、(B)はアーサーの妄想であり、作品としては(C)というオチへのミスリードを誘っているようにも思います。
ジョーカーの手錠が外され解放された妄想
そしてジョーカーが悪のカリスマになった妄想
これは冒頭でアーサーが母親とテレビを観ながら妄想していた、マーレイとスタジオで会話をし、同じステージに立って恍惚としたシーンとリンクします。アーサーの妄想の中ではいつも彼の苦痛が解放され、他人に認められた自分がスポットライトを浴びているのです…
この作品は「キング・オブ・コメディ」を下敷きに、妄想癖がキーになっている事は理解します。でもなんで最後に妄想を示唆するような終わらせ方をしたのでしょう?最後はジョーカーの誕生で終わらせれば良かったのに…
あれでは彼の妄想が"コメディアン"から"犯罪者"へシフトしただけで、コメディアンや隣人への想いと同様、叶えたい憧れを頭の中で抱いたまま、何者でもないアーサーがただそこにいるだけになってしまいます。
それは違うでしょ⁈
だって「ジョーカー誕生の物語」というのなら、最後のボンネットに乗って、悪のカリスマとして終わらせるのが当然ですよ。それでこそ歴史に名を残すスーパーヴィランが誕生するわけですよ。
アーサーはやっと自分を手に入れたんです。世間に認められず、自分が何者かも分からず、そんな者が道化になれるはずもなく、自分の生きる意味も見失っていたわけです。そんな男が最後に自分の居場所を見つけたんです。
それを最後にあんなことしたら、あのボンネットに乗って悪のカリスマになったことも妄想になってしまい、僕たちが知るスーパーヴィランのジョーカーは、この物語では誕生していないことになってしまいます。
アーサーはパプキンじゃないんです。ジョーカーにならなくちゃいけないんです。
例え、まだ子供のブルース・ウェインがバットマンになるまでの帳尻合わせが必要で、ジョーカーの存在を一旦消すための処置だとしても、もっと他のやり方があったと思います。
ずーっと楽しみにしていて、ずーっと面白く観ていただけに、最後の最後になって、100年の恋も覚めてしまった…
そういう気持ちです。