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ジョーカーのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

途方もない孤独と絶望的な境遇と環境…。
何という救いのない話…。
悪寒に似た鳥肌が立つと同時に、観賞後には涙が溢れた。
どうしようもないほど共感してしまった。
それは「感動」ではなく、紛れもなく「共感」だった。

この映画は危険だ。確実に精神を蝕む。
ジョーカーを模倣する人間が出ないことを祈るばかりだ。
アメリカン・コミックが元とは言え、子どもや若くて人生に迷える人間は、この映画を見てはいけない。

R18どころの騒ぎではない。R30でもおかしくはないとさえ思う。

このSNSという匿名性を保てる場を借りて、糾弾されることを覚悟で言えば、この映画を他人事と割り切って見ることのできる人は、よほど若く、挫折を知らない人生経験の浅い者か、よほど幸せな人生を歩んできた者に違いない。

異常者の話だと割り切り、人間を見つめ、理解しようとする思考を停止させて、主人公と自分との共通点を見つけられない人は、全く主人公に共感は出来ず、評価は低いはずだ。

劇中に登場する後のバットマン、幼いブルース・ウェインのように「人生の厳しさ」を知らないのだ。

そして、ラストにブルース・ウェインが経験するように悲劇という「人生の厳しさ」が身に降りかかった時に、世界を逆恨みして、ジョーカーを模倣しないとは言い切れない。

「人生の厳しさ」に直面するであろう、その後の人生のために、若い人は見てはいけない。

私のような経験ある大人ですら、精神的に影響を与えるのだから…。

声高に周囲に言えるはずもないが…他人に敬遠されるのを覚悟で告白すれば、この映画に描かれるジョーカーの境遇はまさに【私自身】だった。

私自身の過去の経験と内面を、恥ずかしいほどに一致を見せて、心を深く抉った。
鑑賞中、私はアーサーに共感し、同情し、ジョーカーに取り込まれた。

映画自体は、M.スコセッシ監督作品「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」の変奏曲である。
タランティーノ作品よりも作品を絞っており、分かりやすい設定の引用だ。
この2つの作品の主人公が持つ、孤独という特徴と不幸な境遇と経験を、1人の人間に集めたのだ。
それらは決して目新しい作風やテーマ性ではない。


傷つきやすい繊細な感性。
家庭や恋人に求める愛情という安らぎ。
虐げられる者の心の痛み。
夢や憧れに対する純粋な想い。
不幸な環境から抜け出すための努力。

これらはあらゆる「感動的な映画」に内在する普遍的な要素だ。
どれか1つでも物語の中で、登場人物の努力によって満たされたり、達成されたならば、私達観客は「ウンウン、良かった。良かった。」と安堵することができる。

感動的な作品に、観客は自分を重ね、明日を生きる気力を得ることができるからだ。

「生きていれば、きっといつか良いことがある。」と人生に希望を抱き、「世の中、悪い人間ばかりではない。心ある誰か優しい人間が助けてくれるモノだ。」と人間の性善説を信じることができる。

しかし、この作品では「感動的な映画」に内在する普遍的で、人生に希望を抱く要素を、ことごとく、しかも丁寧に踏みにじって行く❗️
まるで「残酷な人生の極み」を見ているようだ…。
人生とはかくも残酷だという性悪説の観点から物語は語られていく。

「狂っているのは世間か?私か?」と主人公は問うが、明らかに主人公を取り巻く環境と人間が狂っているとしか言いようがない。

主人公アーサー・フレックは、いつかコメディアンになることを目指して、ピエロとして働く青年。

しかし、ピエロ(道化)であることをからかわれ、路上で少年たちに痛めつけられ、挙句、看板を壊したとして、同情の言葉もなく、雇用主に責められる。

加害者が少年であることから、イジメの比喩とも取れる。
見た目や行動が特異で自分と違うからという理由だけで人を非難する者には、アーサーの涙は分からないだろう。

アーサーが私達と違うのは、精神的な疾患を持っていること。
気持ちが昂ぶると、自分の意に反して発作的に笑い声をあげてしまうこと。

この発作を「異常者の特徴」と括るのは、あまりに安易すぎる。
仕事をする立場であれば、誰もが「本音」と「建て前」を使い分けるからだ。
アーサーにとってピエロは仕事上の「建て前」で、ハンデを抱えているが、良い人間であろうと理不尽を我慢する人間性が「本音」だ。

私もクライアントに無理矢理でも笑顔を作って接し、無理難題を聞き、苦渋を飲むこともある。
自分の気持ちに嘘をついてまで、働いていない者には決してアーサーの気持ちは分からないだろう。

アーサーは生活は貧しいが、病気の母親を気遣う心優しい青年だ。

これも老人介護を経験したことがない観客に、その辛さは分からないだろう。
日常の労力の殆ど介護に奪われる。
生活するのが精一杯で、外部に自分の楽しみを求めるなど出来ない。
社会から隔絶されたような気になる。

例え、エレベーター内での短い時間であっても、隣人の女性から向けられた笑顔は、社会から隔絶された孤独な人間にとって、細やかだが暖かい社会との接点だ。

恋をするには充分な理由だ。
普段からモテている者、自分は愛されている、それを失うはずがない、という不遜な自信を持っている者には、この気持ちは分かるまい。

自分から声を掛ければ、いつか発作が現れ、嫌われて傷つくとアーサーは予想する。
しかしまず相手のことを知りたいというアーサーの気持ちに罪はない。
後を付けるという行動はともかく、その心に残った暖かさを繋ぎ止めたいという、アーサーの小さな希望を非難することは誰にも出来ないはずだ。

理不尽な暴力から身を守れと、同僚に手渡された拳銃を、小児病棟での仕事場で落とし、患者に恐怖を与えたとしてアーサーは解雇される。

なぜ小児病棟に銃を持ち込んだか?
少年から暴力を受けたからだ。
身を守るためであることは明白。
危険はないと踏んだ、アーサーの踊りが激しかったゆえの失敗だ。
しかも拳銃を与えた同僚は、我関せずとアーサーを弁護しない。

失敗は誰にでもある。失敗は成功の母。という人を育てる考えを持たない者には分からないだろう。

長い付き合いにも関わらず、事情もロクに聞かず、コンプライアンスに縛られて、風評被害に怯える者の多さ。
そして失敗した者を糾弾して、切り捨てる憐みのない社会。
70年代の世界観を持つこの映画で、この部分だけが唯一、現代的な感覚と言える。

失意の中、ピエロの扮装のまま電車に乗ると、富裕層の3人の若者たちに絡まれる。
ここもまたイジメの隠喩だが、少年ではなく、青年であるゆえ物理的に危険だ。

命の危険を感じたアーサーは、若者を持っていた拳銃で射殺してしまう。
客観的に見れば、明らかに正当防衛だ。
警察の現場検証からも明らかであり、新聞にも「自警」と報道される。

トイレに駆け込み、踊るアーサーの胸に去来したものは何か?
生まれて初めて、他人よりも優位に立ったことへの喜びである。
それがトイレというプライベートな空間で誰にも見られずに踊るという行為が物悲しい。

他人から褒められる行為ではないとアーサーは自覚しているからだ。

決して人に見せる喜びではないことを分かっており、まだ道徳的にはまだ破綻していないことを表す悲しくも美しいシーンだ。

しかし結果的にこの事件が、貧困層の支持を得て、不満を抱く富裕層に対する暴動の火種となっていく。
正しい行いをしていれば、自分の身を守るはずの法律からも、アーサーは外れてしまう。

自分にとって正しい行い(夢を目指す努力)をしようとスタンダップ・コメディの舞台に立とうすれば、発作が邪魔をする。

発作を止めようと主治医のカウンセリングを受けようとすれば、頼るべき診療施設は不況の煽りで閉鎖すると言われる。

やがてアーサーは母親の手紙から出生に秘められた秘密を知り、(貧困と環境から抜け出せるかものと期待して)父親と思しき大富豪に会いにいくが、母親の妄想だと真っ向から否定される。

アーサーにとって母親だけが家族であり、最後の心の拠り所。

誰にとっても家族は心の安住の地。
血を分けた者ならば、裏切るはずもない。
アーサーに対する警察の追及に病を悪化させた母親は入院。

母親が秘密にしてきた自分の出世の秘密を証明すべく、アーサーは奔走するが、掴んだ事実は、自分が実の子ではなく、母親が富豪との恋という妄想を満たすための道具であり、養子であったこと。

加えて、養父が幼いアーサーに暴力を繰り返し、母親は容認していたこと。

さらにアーサーが笑う発作は、先天性のものではなく、自分は被害者ではないともう1人の笑う人格を作ることで回避していた解離性障害から来るものであったことを知る。

信じていた親からも裏切られていたアーサー。
この特殊な生育歴は同情を禁じ得ない。
自分に特異なハンデを与えたのが、他ならぬ母親なのだから。

私自身、親を信じていたが、親が亡くなる前に認知症の末、私のことを忘れ、また間違った事実を教えられ、亡くなった後には遺産相続の骨肉の争いを経験した。
それらはアーサーと富豪トーマス・ウェインの会話に似て、親の死を迎える人間には多くの人に降りかかる苦難だ。

だが、それ以前に、アーサーは母親の血縁でも無ければ、愛されてもいなかったのである。

さらに助けを求めて飛び込んだ隣人の女性宅で、交際していることが自身の妄想の産物だったことを悟るアーサー。

次々に社会における居場所どころか、心を委ねる人間さえも失うアーサー。

壮絶な不幸の連続だ。
不幸は幼い時から積み重ねられ、確実に現在を生きる希望を蝕んでいる。

もうやめてくれと思うほど不憫だ。
現実を闘ってきた者にとって、アーサーの憂鬱や不満、心の痛みは充分に理解できる。

しかし、彼は方法を間違えてしまう。
自分を取り巻く世界が、自分に優しくしてはくれない。
ならば自分の存在を知らしめようとするのである。
その結果、彼の意図ではないのだが、世界に戦争を仕掛けてしまう。

その手始めに、まるで通過儀礼のように、アーサーは自らの手で母親を殺し、自分を陥れた元同僚を殺害する。
「自分は何だってできる」という退路を立った自己顕示欲だ。

憧れのコメディアンであるマレー・フランクリンの番組にゲスト出演する機会を得たアーサーが、番組で自殺しようとしようとしていたのは明白だ。

自分の存在を世界に知らしめることが出来る喜びに、晴れやかに階段で踊るアーサーの姿が痛々しい。

しかし、出演してみれば、憧れのマレーにすら嘲笑の対象として扱われている事実を前に、「富裕層の若者を殺したのは自分だ。」と自己顕示欲を見せてしまう。
嘲笑に踏みにじられる前の僅かな抵抗、又は承認欲求だったのかもしれない。

自分の存在に注目を集めるつもりが、冷たくマレーに説諭されるアーサー。
貴方に自分の何が分かる?と憤りを隠せない。
「人生は悲劇だ。クローズアップでとれば。でもロングショットでとれば喜劇になる。」

C.チャップリンの名言の引用だが、このセリフは、映画を超えた真実だ❗️
この一言がアーサーの物語だけでなく、現実世界をも包括してしまう。

TVに映し出される衝撃的な映像や事件のほとんどは、私達は自分に被害が決して及ばない安全な場所で見る「喜劇」だ。

誰も登場する人物や環境のバックグラウンドなど考えもしない。

しかし、当事者にとっては紛れもない「悲劇」なのだ。
直接、血や死といった残酷なものが提示されないと、私たちはそれが悲しい現実なのだと気がつかない。

「失うものがない男を怒らせたらどうなるのかを思い知らせてやる」と、スーツに隠していた銃でアーサーはマレーの額を撃ち抜く。

生放送中に起こった殺人事件は、視聴者に現実を実感させてしまう。
庶民の怒りが世界を変えてしまうことを。

アーサーはパトカーで暴動の起こる街を移動する。
燃え盛る炎は、アーサーの怒りだ。

暴徒の運転する救急車がパトカーに突っ込み、気を失ったアーサーを、ピエロのマスクを被った男たちが担ぎ出す。

炎の上がる街を見つめながら、ジョーカーは一人きりで踊ってきたダンスを、ゆるやかに踊り始める。
もはや隠すことはない。
同じ境遇を抱える人間に囲まれているのだから。
祭り上げられているとはいえ、ここに来て、ついに踊ることでアーサーは心を開くのだ。

決して彼の意図ではないのだが、アーサーは世界に争いをもたらしてしまった。
自分が一身に受けてきた不幸と混沌を、世に振り撒く者として生きて行こうと決意した瞬間である。

不幸な男が、世界を恨み、破壊していくジョーカーとして【覚醒】してしまった。

ここで終われば、「世界を逆恨みする不幸な男」という印象を持つ人がいるだろう。

私もここで終われば、結局、ジョーカーは反キリスト的なイメージなのだと切り捨てたかも知れない。
数々の苦難と裏切りと巡礼の果てに、祭り上げられるアーサーはキリストのダブルイメージでもあるからだ。

西欧人がキリスト教の善悪の道徳観から脱することはないのだと、ここでエンディングだと思っていた。

しかし、演出側は粋な(ジョーカーの如く捻くれた)エピローグを用意していた。

精神病院でアーサーが質問される姿が映し出される。
暴動の後、アーサーが逮捕されてから、質問されているのか?
それとも、この映画の物語自体が初めから精神病院で語られたアーサーの妄想なのか?…が分からなくなる。

それに対するアーサーの答えはこうだ。
「あんたには、分からない」だ。

私はこの一言で救われた。
俺の本当の痛みは、遠くから見ているあんたには分からない、とアーサーに拒絶され、これはフィクションなのだと認識できたからだ。

人生の経験から来る、途方もない共感から解放されたのである。

このエンディングが無ければ、私はアーサーに同化して、実生活で理不尽なものに怒りをぶち撒けるジョーカーになっていたかもしれない。

「危なかった…」と、私は安堵した。
愛する家族の元に、私のままで帰還することができたのである。

多くの人にとって、この作品は危険である。

アーサーの不幸の連続に共感(シンクロナイズ)することは、自分が不幸なのは周りのせい、逆恨みの末に、引き起こす暴力を正当化しそうな危険を孕んでいるからだ。

2001年の附属池田小無差別殺傷事件、
2008年の秋葉原無差別通り魔事件、
2019年の記憶に新しい京都アニメーション放火事件。

いずれも自分の不幸を逆恨みした末に、個人が引き起こした起こった痛ましい事件だ。
これらに類いするジョーカーの模倣犯が、これから出ないことを、切に願っている。

そのあまりの危険度ゆえに、どうしても私は満点は出せない。

ただし❗️
この映画は、人間の孤独を描いたという部分では、紛れもない傑作である❗️

あらゆる映画賞を総ナメにしてもおかしくないが、審査員が世間に与える影響に怖じ気付いて、無冠に終わっても全く驚きはしない。
ベネチア国際映画祭の審査員たちはそのリスクと向き合う勇気があったようで、最高賞の金獅子賞を与えている。

「アカデミー賞は確実だ」という踊り文句が劇場のポスターにあったが、アメリカにその勇気はないだろう。

ホアキン・フェニックスは主演男優賞ものだが、もしも、この作品がアカデミー作品賞を獲得したら「アメリカ映画の【健全な】発展を目的とする」狙いから外れてしまうからだ。

この作品がアカデミー賞を獲るならば、トランプ大統領政権下での、アメリカの病巣を剥き出しにした功績となるだろう。

しかし、この映画に賞を与えて、多くの人間が見ることは、とてつもなく危険なのである。
特に多感な若者に与える影響は大きい。

「あんたには、分からない」
それは反抗する若者の常套句だからだ。


追記。
ほぼ満員の劇場で、この映画を見た観客の年齢層は高かった。
エンドロールのあと、その誰もがおしゃべりの1つもせず、無言で整列して出口に向かった。
共感に囚われ、精神的に疲れ、私と同じ想いであっただろうと勝手に想像している。

だが、2組ほど、美男美女の若いカップルと高校生男子3人組が、苦笑いをしながら、頭を垂れて、視線を下に向け、出口を出た途端、足早に劇場を後にした。
「私たち、場違いですいません。」という顔に見えた。

彼らは真っ当な人生を送るに違いない。
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