すがり

キャッツのすがりのネタバレレビュー・内容・結末

キャッツ(2019年製作の映画)
1.2

このレビューはネタバレを含みます

舞台はね、みたことないんです。
知っていたのはキャッツという舞台の存在と、昔テレビの音楽番組で見た一部のパフォーマンスだけです。
予習をして行った方が良いという話を聞いていたので軽い情報だけ仕入れて観に行ったわけです。

もうね、前提知識とか舞台に行ったことがあるとかないとか、関係ないのではこれ……。

海外メディアの酷評、「スコアをつけろというならオニオンだ」とか「劇場の出口へ向かうとき、幸せを発見する」とか「犬の誕生以来、猫にとって最悪の出来事だ」とか、皮肉がききすぎていて面白さすらある声も随分と届いていたところで、自分は楽しみにしていましたし、その酷評がかえってワクワクを押し広げているような感覚すらありました。

それが、開始5分を待たずして期待に類するあらゆる前向きの感情が退場していくことになります。

話には聞いていましたが、最も目にすることになる猫のビジュアルが、あれほどのものとは……。
猫たちに関しては決して気持ちが悪いわけではない、たしかに奇妙ではあるけれど気持ち悪くは……ない気もする。
CGのおかげもありどこまでも猫なのに、手足の人間具合は果てしなく奇妙で大いに違和感はあります。
何でしょうね、私はここでもののけ姫の猩々たちが放った「生き物でも人でもないもの」という言葉を思い出しました。
そう、まさしくそんな風な感覚に陥る映像、そのキャラクターたち。
例えばかつて見た覚えのあるテレビ番組でのパフォーマンスで言えば、それは明かに人間が衣装として猫の装いをし、演じるという前提。
「人が猫を演じている」という安心感とも言うべき前提がありました。
それが今作ではどうでしょうか。
映画なのだから頭では分かっています。役者がいて、演技があって、猫が居る。
でも目に入ってくる情報からはとてもそれが信じられない。どう見ても猫じゃあないですか。

でも、更に、でも。
この猫には人間のものと言うべき顔がついている。手足がついている。このクオリティで。
今更猫が人間の言葉を喋ってるということ自体になんやかんや言うつもりは毛頭ないけれど、CGで人間の言葉を話す人以外のものっていうと私はどうしてもシーマンを思い出してしまって、それはまあ仕方のないことだと思う。
不思議なのはあのシーマンはまだ愛嬌というか憎めなさで世間を席巻していたような記憶があるけれど、今作キャッツがそうはならなかったということ。
あの奇天烈な生き物に比べれば猫の方が身近な印象がある分、違和感が強くなってしまったと言うのもあるのかもしれない。
開始から2分ほど違和感への抵抗を試みたり、見ているうちに慣れるのではないかとも思っていたが、CG、顔、手足、動き、目に入るあらゆる情報のおかげで私にとっては全編通して完全に「生き物でも人でもないもの」になってしまった。

特に、時間の経過とともに慣れるどころか抵抗力が失われていくだけの今作、その序盤においてあのファットなキャットのシークエンスには観に来たことを後悔すらしてしまった。掴みは最悪である。

舞台でも同様の表現があるとかないとか、そういうことはもはや問題ではない。
作っている側の人間であれは良くないという人が居なかったわけもないと思うのだが、どうしてあのコックローチらが映像化、しかもこのクオリティで表現されなくてはならないのか。
要るか、こんな実写。やめろ、食べるな。実際の猫の習性がどうとかはもういいから、頼む、やめてくれ。
行列をつくるな。お菓子に近づくな。あとネズミもやめてくれ、何だあの不気味さは。
人の感性なんて千差万別、何でも有りだろうとは思う。ただ、私はあれを地獄絵図だと感じるタイプだった。

もしかしてキャッツ実写化と思わせて巧妙に仕掛けられたノーミート促進運動なのかこれは。
確かに、ああいった顔つき、質感で現在動物などと言われていて人と区別されているような生き物全てが存在していたら、さすがの私もベジタリアンかヴィーガンかになる努力をせざるをえないだろう。

ここだけでも充分に帰りたくなる気持ちを後押ししてきたキャッツの魅力、もとい地獄のような試練だが、残念なことにこれにとどまらない。
これから始まる猫たちによる苛烈かつ華麗な生まれ変わりレースの開幕を地獄絵図が飾ってしまい、早々にげんなりしているこちらに対して、同じくファットな感じの紳士なキャットが見事に地獄のバトンを引き継いでくれる。
もちろん、開幕のおぞましい大行進に比べればいささかマシなものではあるものの、あらゆる手段でゴミを漁り続け、ダイブし、ゴミに飲み込まれ、恍惚としているあの猫たちはまた違った地獄絵図に違いはない。
ここでも実際の猫がどうとか生ゴミの問題がどうとかそういう現実的な話は必要ない。
何にしたって結局あの手の表現やゴミ類に対しての嫌悪感は拭えないのだ。現実では、現実であるばかりに軽々に臭いものには蓋という立ち回りができないので様々なことを考え、実行しなくてはいけないが、思い出してほしい、これはミュージカルで、映画だ。
少なくとも、キャッツという作品でこういう臭いものと戦わなくたって良かったはずではないのか。
いや、戦っている意識は無いのだろうけれど、何せ恍惚としている……。
地獄の大行進にしろゴミの大海原にしろ、何かもっと映画的に、ミュージカル的に、嫌悪感の薄まる工夫がほしかった。

いっときは慣れてみようかと、耐えてみようかと思ったりもしたが、ことここに至り私は残った全てを放棄した。
その後はもう、相手のなすがまま身を任せた……。

嫌悪に身を震わせることもなく、感動に心を震わせることもなく、ただ、任せた。

何か人気者だったっぽいオスの猫がコートらしきものを脱ぐ瞬間の妙ないやらしさも、流した。
マキャベティだかマキャバティとか言ったならず者っぽい猫のよく分からない感じも、流した。
手品猫のシークエンスの意味不明さも、流した。

この手品猫、こればかりは本当に分からなかった。
自分が既にこの作品に入り込もうとするのを拒否していたからかも知れないが、手品猫のことを信じれば良かったのだろうか。
実際には魔法のようなことはできないけれど、信じることと期待されることで頑張ろうとしているのを微笑ましく見ていれば良かったのだろうか。
デュトロミーの再登場の仕方からすれば手品猫が呼び出したようには思えなかったのだけれど、その後のお祭り騒ぎを見るとこちらがおかしいのだと思わされてくるからには、やはり何もかもが分からない。

おそらく最後にして最大の見せ場であろうグリザベラのメモリーすらも、流した。
というよりも流れざるを得なかった。
何しろ何一つの感情もこの時点では持ち合わせていなかった、無、ほぼ無に近い状態にさせられていたからだ。
それでもそれと同時にここは辛かった。
何しろ、感情が爆発すべき場面だろうことは頭では分かっているんだ、それなのに一切の心が動かない。
ただ、この状況と状態のミスマッチは辛いとは言っても不思議な体験だった、勉強になる。

結局、私はキャッツに勝てなかった。
序盤に印象付けられた濃厚な敗戦模様はいよいよ覆らなかった。
そのおおよそに心を削がれ続け、最終的に謎のカメラ目線によってこちらに語りかけてくるデュトロミーに腹立たしさすら覚えたほどだ。
何なんだあの語り……最初なら自然に受け容れられたしそういう方向性なのだと心の矯正もできたのに、このキャッツで最後に持ってこられたらいつ終わるんだろうって気になりだしても仕方がないと思う。
出口に向かうときに幸せが何かを思い出すとはまさにこのことだ。

一応、無理矢理にでも良かった場所を挙げることはできる。
今作キャッツにおける救世主とも言える鉄道猫の存在だ。
彼のタップダンスには救われた。
……。
無理矢理に挙げているだけなので良かった点は"彼"のみに留まるのが残念……私が好きなのは彼のみだ。

それともう一つ無理に挙げられるのはテイラースウィフトだろうね。
可愛かったね。可愛いと言えば主演の白い猫もそうだけど、なんだろうね、とっても性的だったね。艶かしいってやつ。
……。
いやいやいや。艶かしいのは良いよ、嬉しくないって言ったら嘘だもの。まあ良いよ。
どうして前に押し出して来るんだよそういう要素……。
ここに限らず明かにそれを意識している瞬間瞬間がありすぎだよキャッツ。
他の要素で感情を殺されているところに押し出されてきたら反転して嫌悪にも達するかもしれないだろ……やめてよ。
マタタビでキマっちゃってる猫らもそうだし、何か飲むのに忠実に舌使ってるのとか、何で妙に性的なんだよキャッツ。
自分が勝手にそう感じているだけだろって言われたらそうかもしれない、って他の映画だったら言うところだけど、キャッツは一度観てもらったらそういう受け取り方をしてしまっても仕方のないところはあるよねって納得してもらえると思う。

無理矢理にでも良いところを挙げるはずだったのに、挙げきれなかったね。無理矢理だもんね、無理だった。

これまでの犬猫戦争の歴史を振り返るときに、これほど盛大な自爆はあったんだろうか。
「犬の誕生以来、猫にとって最悪の出来事だ」正直このフレーズかなり気に入ってます。
猫勢による強力無比なオウンゴールが決まってしまった今、今後の勢力図は面白くなりそうですね。
すがり

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