タケオ

Fukushima 50のタケオのレビュー・感想・評価

Fukushima 50(2019年製作の映画)
1.2
 「本作がどこまで事実に基づいた作品となっているのか?」という問題は一旦置いておくとしても、本作『Fukushima50』(20年)はそれ以前にあまりにも多くの問題を孕んでおり、観ていて本当に頭がクラクラとした。
 やはり本作最大の問題点は、当時現場に居合わせた作業員たち(通称:フクシマフィフティ)のことを「英雄」として描いてしまったことだろう。もちろん、原発事故の被害を最小限に留めるために命懸けで奔走した作業員たちには、本当に頭が下がるばかりである。しかし、原発事故の原因が自然災害——ひいては、自然災害による被害が予測されていたにもかかわらず「日本の原発でそういう事態は考えられない」と一切の対応を拒否したうえに、原発事故が起こるや否や、その責任を民主党政権に押しつけた第一次安倍内閣にある以上、命懸けで奔走せざるを得なくなった作業員たちはどう考えても原発事故の「被害者」でしかない。だが本作は、そんな作業員たちを「英雄」として描くことで、原発事故の責任関係を曖昧にしてしまっている。無能な指導者のせいで命懸けの行動を余儀なくされた「被害者」のことを「英雄」として扱い責任の所在を誤魔化そうとする本作のやり方は、戦死者のことを「英霊」として崇めることで指導者たちの無謀かつ愚かな行為を美談のように偽り、戦争責任の所在を誤魔化そうとする靖国神社の在り方とも通じるものがある。言い方は悪いかもしれないが、いかにも大日本帝国らしい時代錯誤で性根の腐った作品だとしかいいようがない(誤解のないよう繰り返し言っておくが、僕は事故の被害を最小限に留めるために尽力した作業員たちを心の底から尊敬している。そんな作業員たちを「英雄」として扱った本作の「映画」としての在り方を批判しているのだ)。
 満開の桜が咲き誇る景色を映し出し、まるで全てが解決したかのように幕を引こうとするラストにもドン引き。確かに復興こそ着々と進んではいるものの、帰還できた避難住人はまだほんのひと握りにすぎず、「想定外だった」とのたまうことで原発を誘致した張本人たちは責任から逃げ続け、そして今なお日本では5基の原発が稼働中(2021年3月15日現在)である。まだまだ問題は山積しており、何一つとして終わっていないのだ。どうしてこれを美談のように描けると思ったのか、さっぱり理解ができない。フィクションかどうかという違いこそあれど、同じ題材を扱った『シン・ゴジラ』(16年)がなぜ「物語」から葛藤やドラマを排除したつくりとなったのかを本作の制作陣には考えてみてほしいものである
(『シン・ゴジラ』に登場するゴジラが自然災害であると同時に原発のメタファーであることは明らかだ)。『シン・ゴジラ』の制作陣は、原発という複雑極まる題材を感傷的なドラマとして描くことが如何に問題であるかをよく理解していたのだろう。
 あの日に何が起きていたのかをザックリとは知ることができるため、全く価値のない作品だというつもりはない。しかし、あまりにも無神経かつ不誠実な制作陣の態度には本気で怒りを覚えた。「俺たちは自然を侮ったんだ」とそれっぽい結論を出して満足そうにしていたが、制作陣は本気でそう思っているのだろうか?最後の最後に画面に映し出されるメッセージも、今となってはもはや不謹慎なギャグでしかない。安易に美談としてまとめようとするからそういうことになるんだよ!とりあえず、『チャイナシンドローム』(76年)と『チェルノブイリ』(19年)を100回鑑賞してから出直してこい、ボケ‼︎
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