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閉鎖病棟ーそれぞれの朝ーのるるびっちのレビュー・感想・評価

閉鎖病棟ーそれぞれの朝ー(2019年製作の映画)
3.2
舞台が精神病院で分かり辛いが、高倉健の任侠物と似ている。
脛に疵を持ち、ひっそり暮らす前科者が不幸な娘のために一肌脱いで再び罪を犯してしまう。
高倉健やないか!!

笑福亭鶴瓶演じる梶木は、高倉健の役割。
変わった経歴のキャラで、特殊な感じに見えるが構造は任侠物。
精神病院を舞台にする必要があるのか?
老人ホームや障害者施設、隔絶した作業現場などでも成り立つ話だ。

現代は人でなしが平気な顔で暮らし、まともな人間ほど生き辛い。
狂人にでもならないと、生きていけないという社会批判だろうか?
それに倒す相手が違う気がする。
被害娘が、一番苦しめられているのは義父だ。
義父との問題を解決しないと、小松菜奈演じる女性に安楽はない。
なのでスッキリしない。
逃げ込んだ娘を追ってくる義父を、倒すべきだったのだ。

登場人物はそれぞれ梶木に励まされる形で、生き辛い世の中で勇気を奮い立たせて前進する。
そのことで、梶木自身も再び立ち上がろうとする感動話だ。
精神病院の問題は表面だけで、核心には関係ない。

気になるのは、この話は鶴瓶と小松菜奈だけで成立している。
綾野剛は必要ない。周辺をウロチョロしているだけだ。
なのに主人公のポジションなのが、ドラマの弱さに直結している。
裁判に関して事件の証拠写真を提出するか否かで悩むのなら、彼にもドラマがあるが、そういう展開ではないので不要な人物だ。
精神病院から実社会に飛び出すという自立を担っているが、それは小松菜奈で十分果たされている。
ドラマツルギーと小説の描き方は違うと思う。
違いを認識していないから、弱い主人公を置いてしまうのだ。

小説家が書く主人公には、観察者というパターンがある。
『吾輩は猫である』の猫は、冒険の旅に出る訳ではない。
のうのうと家に居て、人間を観察して考察を述べているだけだ。
『坊つちやん』も坊ちゃん自身がドラマチックなことをするのではなく、田舎の生徒や教師を観察して批判している。
キャラクター的には主人公の坊ちゃんより、赤シャツや山嵐の方が個性的だ。主人公が何もしない受け身でも、観察者だから成立する。
しかし映画のドラマツルギーでは、主人公が目的を持って能動的に動かないといけない。
それがテーマでありストーリーであり、主人公の行動や決断がドラマを生む。
映画で観察者を置くと、ただの傍観者に見えてしまう。
映画では、観察しているのは観客自身だから観察者は不要なのだ。
映画では、人物の行動(生き様)こそが観客に訴えかけるものであって、小説の様に他者を観察した考察や講釈を聞かされる物ではない。
小説では主人公は観察者として、濃い生き方をする人物たちを見て世の中や人間らしさを考察して述べる。
だから主人公より個性的な脇役が出て来る。主人公が薄くても成立する。
小説では観察者である猫や坊ちゃんは主人公足り得るが、映画では何もしない無能な傍観者になってしまう。
その違いが解らず、シナリオを書いている。
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