140字プロレス鶴見辰吾ジラ

フォードvsフェラーリの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

フォードvsフェラーリ(2019年製作の映画)
4.4
【美学】

ル・マン24時の絶対王者フェラーリに挑んだフォードのクリエーターの物語。「フォードvsフェラーリ」というのは冠の闘いでしかない。これは本質を追い求める美学の物語であり、冒頭と最後に示される7000回転の世界の物語だ。

そもそもフォードはフェラーリになんて勝てない。潤沢の資金と金を稼ぐことを優先する者たちに自分たちの美学を追求する者たちの足下にも及ばないのだ。金で買えない者は“美“や“純粋“なのだ。売上に躍起になってる連中がレースでもNo.1が欲しいなんて傲慢にもほどがある。恥を知れ!肥た精神のアホ野郎ども!

何故フェラーリ陣営はフォードのことを“醜い“とこき下ろしたのか?“醜い“とは“美“の反対側だ。レースに拘るフェラーリの美学を傷つけ、資金をもって勝利を得ようなど、それこそ“醜い“のだ。

映画自体がクリエーターと映画の話もしている。例えば新海誠。2016年「君の名は。」と「シンゴジラ」。

新海誠「君の名は。」がフォードで庵野秀明の「シンゴジラ」がフェラーリとしよう。売上だけでは埋められない精神の部分があるはずだ。ディテールや現場の精神含めて。

しかしながらこの構図もある。
新海誠「君の名は。」がフォードで「天気の子」がフェラーリだ。後者はちょっと強引、本質的に言うと「君の名は。」が企業に従ったフォードで、「天気の子」は暴れ馬をドライバーにしたフォードだ。美学を追求することは破滅的でもあり正しい資質(ライトスタッフ)が必要だ。資金提供において管理されたスピードよりも破滅へ向かう魂を剥き出しにしたスピードが人々を魅了するのではないか?

中盤にフォードのムスタングの新車が披露される場面で、ムスタングという野生の馬のイメージを企業という鎖に繋がれた馬として示し、後にデイトナのレースで7000回転にGoを出すシーンで鎖から解き放たれた真の野生の馬のイメージをもたらす。あそこは心底震えて泣いた。俺たちも企業の鎖で繋がれているが、引きちぎって美の世界へ行けるんだと思った。

そして7000回転の世界とは?それは風になることだ。圧倒的な自由、そして重量からの解放だ。これはアポロ計画の話にも似ている。NASAと宇宙飛行士の対立があった。NASAは完全管理のシステム制御を強要したが宇宙飛行士にはプライドがあった。操縦席も窓もない醜い宇宙船でなく、操縦席のあるパイロットの尊厳を。(フォードは白やメタリックでフェラーリが赤のイメージは米ソの宇宙開発競争を想起させる。)

上記で「ライトスタッフ」という言葉を使ったが、主人公のケン・マイルズは何度もテスト走行をする。「ライトスタッフ」はテストパイロットの話だ。そしてブレーキ不全や死のイメージがちらつく。本質的に美を追求することは破滅的でもある。7000回転とは生の世界と死の世界の境界のようにも映る。風になるのだ。肉体がダイレクトに空間と時間を認識する世界。デイトナのラスト1周に異常な熱量を感じたのはこれかもしれない。

とにかく地を這うカメラワークのスピード感とコーナーギリギリを攻めるブレーキング。どこまで遠くへ、どこまで速く、そして美しく… 

「フォードvsフェラーリ」は本質ではない。フェラーリという美意識に「美人コンテストなら優勝だな。」という言葉にあったように、自身が描くイデアの獲得のために、横槍を入れる企業エゴとの闘いだと描くクリエーターや現場の映画なのだ。そしてアクセルを踏み込むというイメージにすべてのキャラクターが背負う死のイメージが“美“という愚かだが最も削ぎ落とされた世界なのだと描かれている。