ラウぺ

屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカのラウぺのレビュー・感想・評価

3.5
観たくて観たわけではない、本作は職業上の必要から鑑賞。

1970年代ハンブルクに実在した殺人鬼フリッツ・ホンカの物語。
映画はいきなり一人目の死体を部屋の物置に隠す場面から始まります。
ホンカは短気で直情的、犯行はまったく計画性がなく、部屋に連れ込んだ女を怒りに任せて殺害。
連れ込む女も老女でデブばかり。
しかし、彼の妄想の映像を見る限り本当は若い女の方が好きらしいのですが、醜い外見のために若い女に相手にされないので、老女を連れ込んだ挙句殺害に至る、ということらしい。
『テッド・バンディ』然り『永遠に僕のもの』然り、殺人鬼の映画は大抵は犯人に何かしら際立った悪なりの魅力や動機に特異なものがあったりといった物語的に描くべき理由がある場合が殆どだと思うのですが、ホンカの場合、そうした要因となるべきところが微塵も感じられないのです。
場当たり的な犯行のために、死体の処理は一部を外に捨てにいった初回以外は分解して部屋の物置に放り込むだけ。
近所の住人やホンカの家を訪れる弟や連れ込まれる女がみなその匂いを話題にしていますが、実際に部屋に4人もの死体が放置されていれば、その悪臭は想像を超えたものだったのではないかと思います。

ホンカは日頃から酒浸りで、近所のバー「ゴールデン・グローブ(Goldene Handschuh)」の常連。(このお店は現在もそのまま営業中とのこと)
ここの常連はみな一癖も二癖もある奴ばかりで、社会の掃き溜めのごとき状態。
特に老女はみな抜け殻のごとく、ただ酒をあおるのみ。
ホンカはそこで女を捕まえては家に連れ込み、性交を強要したのちに殺す・・・それの繰り返し。
演じる役者も仕事とはいえ、こんなところで醜態を晒し、観客を不快のどん底に突き落とすために出演していることは本当にご苦労さまとしか言いようがないのですが、フリッツ・ホンカを演じているのは『僕たちは希望という名の列車に乗った』で父がかつて親衛隊員だった少年を演じたヨナス・ダスラーで、その面影は殆ど見当たらないほどの特殊メイク。最近は男の場合は肝心なところにボカしが入らないので、全部見えちゃう体当たり演技。本当にご苦労様と言いたい。

で、本作の重要なところは、短気で粗暴、冷徹で社会性に乏しく、見た目も醜悪で、計画性の欠片もない犯人像を淡々と描き出すところに映画作品としてどのような価値を見出すか?という根源的な部分にあるのです。
一般的な殺人のイメージとは私欲や恨みなど殺人そのものが目的というより目的の達成のために人を殺したり、また快楽のために殺人をする者も居たりするわけですが、ホンカはそのどちらともいえない、単純に暴力の延長に殺人があるという感じ、殴ったり犯したりといった行為とシームレスに殺人がある、というところに特異性があるといえ、ある意味ではその無目的と無計画性の犯行にはただ人を殺した、という事実だけがあるという一種の純粋さにあるといえるのかもしれません。

淡々とホンカの日常と殺人に至る経緯を見せ、これといった物語的なヤマもなく終了、というスタイルは、この殺人鬼の実相をありのまま見せることで、観た者が何を感じるかは製作者側からは何の提示もない、という突き放された状態を堅持し、あえてそうしている、ということだと思います。
本作を観てどう感じるかは、まさしく観客それぞれのものであり、正直なところを言えば、私自身としてはこんな映画を観るよりはもっと他の良い映画をいっぱい観て欲しい、というのが本音ではあるのですが、多様な価値観や得体の知れない存在、まったく理解不能な人物や理屈を超越した行動の産物・・・・といった、自分の理解の範囲外についての認知を広める、その手助けとしての映画館の役割を考えれば、このような作品を上映することの意味は一定程度理解できる、ということです。

蛇足ながらあえて記しておくならば、本作の醸し出す不愉快さや人物像のリアルさは、決して駄作などではなく、丁寧さと真摯なリアルさの追求の結果生み出されたものであることは間違いなく、その点で製作に関わった人の労力は報われるべきだと思います。
ラウぺ

ラウぺ