すがり

トールキン 旅のはじまりのすがりのネタバレレビュー・内容・結末

トールキン 旅のはじまり(2019年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

正直に言いましょう、私は映画好きですがロードオブザリングにはあまりハマりませんでした。
ホビットも観ました。何とか全部追いかけました。やはりあんまり気分を乗せることが出来ずにふんわりした気持ちのまま終えたので、相対的にはあんまり好きじゃあありません。
原作となっている本も読んだことはありません。
だからもし、この映画を作るにあたって散りばめられたトールキンの創造した世界を彷彿とさせるような小ネタ何かがあったらば、それを私が汲むことはできません。

しかし。しかしですよ。
そんなことはまったく関係無くこの映画は大好きです。なぜだ。
そう、それはこれがトールキンの、そして場合によっては、我々の物語だから…!

彼の言葉が私に響く。
周りから投げられる彼への言葉が私を揺さぶる。

意味を持たない言葉はただの音に過ぎない。

そうだ。そういうことなんだ。
これが今作の本質だろうと、言語というものを生み出し使う全てのもの本質だろうと。
これを長いこと考えている。
トールキンが言うならば。トールキンを形成した周りの人々が植えたものならば。更なる自信を持って、この考えを強固にできる。
踏み込んで言えば、それがどんなものであるにしても、意味を持っていなければ何にもなり得ないということ。

現実的には私自身はかなり面倒な奴なんだろうという自覚がそこそこあるんですが、こういう映画を観るとやっぱり言いたい。意味ってやつの重要性をとことん叫びたい。


……ちくしょう!分かってるのか!意味が内包されてなけりゃ無意味なんだぞ!無だぞ!無!
ああ!プーさん!!あなたは何て言葉を残してしまったんだ!何もしてないをしてる……ちくしょうめ!!!なにが無の有だよ!無意味には無意味という意味が……意味を内包しないことはしないことそれ自体が意味で……ええい黙れ黙れ!
そんなものは音!ただの音じゃないか!

ライト教授も仰っていたように言葉を言葉たらしめる意味というものは、すなわちそれが定着する過程すらも同時に表す歴史そのもの!
年季が違うんじゃ年季が!

いやしかし音は集まり紡がれ音楽となる……そして音楽は歴史の上で欠かすことのできない重要な要素……。言葉の生まれる以前から音によるコミュニケーションは……歴史によって意味が生まれ言葉がその存在を確立するのなら、音はその歴史が刻まれるために必要な原子……。
そもそも現代でなお音でコミュニケーションしてるものにとってそれは音なのか言葉なのか……。言語として確立された音はもはや言葉になり得るので、意味の無い言葉が音であっても音である以上言語たる可能性を秘めていて、それはつまり音と言葉との関連の…………嗚呼あああ!!やめろ!私はトールキンじゃない!ただのその辺の人に難しい話を追及して寄越すんじゃない!


このね、意味の無い言葉は音、とか、教授のありがたいお話しだとか、そういうのは結構さらっと出るんです。
だから私も「いや、全くその通りだ」と思いはしても、こういう熱量で映画を観ていたわけじゃないんですよ。
それに映画としてはトールキンの過去と現在をそれぞれ回想しながら一番みせたい時間、トールキンの執筆開始まで持っていって終わるというよくあると言えばよくある映画なんですね。
そうやって観ると正直退屈かなとも思うんです。
かくいう私自身、単純な共感以外の面白さっていうものを見出せないまま終盤まで観てたわけです。

ところが、ですよ。
トールキンの過去編も戦争編も終わって現在の現在に帰ってきてから親友ジェフリーの母親とジェフリーの遺した詩集についてやりとりがあるんです。
過去ジェフリーは詩が好きだが親には反対されるとしていたり、実際大学生時代にトールキンがジェフリー母に息子さんには詩の才能が…と話しても無反応、むしろちょっと悪い方に反応が見受けられたり。
その母親がね、既に教授にまでなっているトールキンとの会話で、息子さんの詩を世に出しましょうと。
そう言われて、そんなの二つ返事で承諾すれば良いんですよ。
それをね、疲れたような、優しいような表情で「これが何かの役に立つのかしら」って、そう言うんです。
何もこの期に及んでなお息子の詩を嫌悪したり偏見があったりするんじゃあもちろんありません。
戦後の今の状況に、その打破に、何か効果生むのかと、本当に心の底から出たごく自然な質問だったんだと思います。

何故なら、彼女にとって詩というものは無意味だったから。
彼女の人生において詩というものは、街を歩けば勝手に耳に入ってくるような、その程度の音に過ぎなかったわけです。
そりゃあそうです、そうでなければジェフリーはもっと当たり前みたいに詩人になっていたでしょう。

この彼女の台詞で私はもう大号泣させられました。
そのシーンからエンドロールが終わって館内が明るくなる直前までぐちゃぐちゃになって泣いてました。
あんなに自然に鼻水垂らした経験は滅多にありません。

映画作ってる側の意図としてこの台詞が用いられているのか、流れでしかないのかそれは分かりませんが、彼女のこの台詞でこの映画は私にとって存在感がとても大きくなりました。

この台詞で意味ってやつの重要性と、多面的でありながらもそれぞれの一方通行が集まった結果で形作られているものなのだという認識を新たにさせられるんです。

これがね、とっても怖くって。
もう自我の危機と言っても過言ではないんです。

たしか京極夏彦の魍魎の匣だったと思うんですが、その作品で呪をかけるって言うやりとりがあるんですね。言葉によって相手を縛るんです。
そこで名前なんて最初にかけられる呪なのではというような話があって、これを読んだ時に大変な納得をしたんですね。
ダーレンアロノフスキー監督のマザーの感想にも書いたんですが、名前なんて要らないんじゃってよく思っていて、それはそれが呪だとするならば、それを拠り所に自己を確立していかないといけない状況は恐怖に満ちていて、それでも当たり前としてそれは行われているんです。
なので恐怖が恐怖になる前に名前ってやつを自己の支柱として取り込むことで一時的に恐怖を忘れて自分を作ってる、そう思っていて。
でも名前ってやつも結局は言葉じゃないですか。
しかも名詞ってなったら言葉を言葉に、意味を意味に決定づける歴史の重要度が跳ね上がるんです。

何かの役に立つのかしら。

映画の内容に対するひとつの回答のように思えたのと同時に、自身の存在意義を問われているような気がして。
自分の……自分を識別するための名前って言葉には果たして意味があるのか……。
この名前に意味があるとしたらそれは私の歴史、人生そのもので、意味が無いとしたら私ってやつは一体何なんだ……?

今は本当に今なのか。
昨日ってのは本当に存在したのか。
過去も現在も未来も全て一律に今であるって話も聞いたことがあります。
気付かぬうちに色々な5分後の世界を渡り歩いているのかもしれません。

意味を考える時に、こんなまとまりのないぐっちゃぐちゃな情報が頭を巡って、しかもそれが全て役に立たないもので自分を支えるはずのものが呪だと確認してしまったときに、自分はまた立ち上がれるのか、今まで立っていたことがあったのか。
やっぱり私には恐怖なんですね。
名前なんてなくてここまで来れたなら、立っていたと堂々できるんですが。
結局外側の何かに縋らないと自己を認識できない可能性にも多少残念さがあります。

そんな映画的には独り相撲かもしれないことで、私の感情は決壊してどうしようもなくなってしまいました。
おのれジェフリー母。

これのせいで映画自体が良かったかどうかなんてほとんど分からなくなってしまって、気に入ったのは間違いないんですが、果たしてもう一度観たいかどうか……。
やっぱり少しの退屈さもあるし、この感情の爆発も刹那的なものだろうから二度目ではどうだろうとも思えるし。

何にしてもトールキンの偉大さっていうのはよく分かりましたよ。物書きとしては完全に私の理想像でした。
こういう書くべき人間がしっかり書いてて、作品を、世界を生み出しているっていうのは本当に素敵なことです。
プーさんもありがとう。

最後に一つ、ひねくれてみると、婚約した女性が田舎に帰ってそのまま戻ってこなかった時、その男性は何を思うのかなって。
私はやっぱりトールキンじゃないからね、そっちの、彼の今後も多少は気になっちゃうよね。
すがり

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