朱音

ミッドサマーの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ミッドサマー(2019年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

その村は、まるで現世に現れた"ヘヴン"のような場所だった。

村人が着用する、それぞれに異なる刺繍やデザインが施された白い民族衣装風の服。ナイーヴアートのように素朴な筆致の壁画。村を埋め尽くす花々。記号のようなルーン文字。北欧のフォークロアを引用しながら緻密に構築されたホルガは、ガーリーともいえる雰囲気を存分に堪能出来る。
その素朴で可憐な親しみやすさが、劇中のダニーたちを油断させたように、特に女性を中心に、普段はホラーを観ない観客を劇場に招き入れることに成功した。

明るいことが恐ろしい。という従来型のホラーの歴史を覆し、明るい陽射しのホラーとして、ジャンル映画としては異例のロングランの大ヒットを齎した本作、『ミッドサマー』。だがしかし、狭義の意味の間でこの『ミッドサマー』はホラーではない。これは監督のアリ・アスター監督自身も発言している。その趣旨は"ホラーには収まりきらない上質な作品"的な自負なのだろうが、そもそも『ミッドサマー』は怖くないのだ。

たしかに、本作にも衝撃のスプラッタ描写が少なからず描かれているし、登場人物たちの末路も悲惨だ。そもそもが、"脳天気な若者たちが田舎の秘境に入り込んだらとんでもない目に遭う"というジャンル映画のクリシェに則っている。分類的にはたしかにホラーであることに間違いはないのだが、ホラー的な怖さがないのが本作の特徴だ。
怖くはないのだが、その代わり非常に不気味だ。天国と見紛うようなヴィジョンの中に、なにか底知れない狂気が横たえている。観た人間の本能的な部分に直接呼び掛けてくるような、危機感の警鐘がけたたましく鳴らされる、そんな印象を抱かせる作品だ。


アリ・アスター監督によると本作、『ミッドサマー』は「道を踏み外した、変態と背教者のためのオズの魔法使い」であると明言している。

生贄となった人々の死因。
物語のラストでこれまでに死んだ者は、夏至祭の生贄の儀式のためであったことが明らかになる。
それぞれの死因をメタファーや物語の構造などから考察したものを調べてみると一層の発見がある。

前述した『オズの魔法使い』の登場人物をダニーたちに当てはめると、
身寄りのないドロシー=ダニー。家族を求めている。
"脳"がないカカシ=愚か者のマーク。愚行によって皮を剥がされ、神殿では藁を詰められる。
"心"をなくしたブリキの木こり=人に気遣えないジョシュ。自身の研究のためにホルガの人々の忠告を無視し続ける。
"臆病"なライオン=クリスチャン。ダニーに別れを切り出す勇気が持てず、死んだ熊の中に詰められ死亡。
このように見てゆくと、作中での死因にも繋がってくる。


愚か者の生贄。皮剥ぎの刑を受けたマーク。
外からの者として、初めて死んでいることが明らかになるマーク。
彼は一行の中でも、スウェーデンの女性とセックスしたいという低俗なエゴから旅行に参加した人物である。マークはホルガ村に着いて以降、思い描いていた旅行と違うことに辟易して、ホルガ村の文化には全く関心を示さない。
その無関心さが災いし、ホルガの全ての故人に繋がっているとされる先祖の木に小便をしてしまう。

一行がホルガ村に到着してすぐに行われた儀式で「愚か者の皮剥ぎ」というものがある。マークはこの儀式の犠牲になったのだろう。

さらにマークの皮を被ってジョシュを襲った男がいたが、これは先祖の木を汚されたことで泣き叫んでいたウルフだろう。怒りに震え、食事中でもマークを睨み付けていたウルフは、もう既にマークを殺すことを決めていたのかもしれない。

初めて遠目から現れたこの皮剥ぎマークはよくみてみると、下半身にズボンを履いていない。
恐らくこれはマークが死んだ瞬間を表しており、女性に誘惑され連れ出されたマークは、性交を行おうと下半身だけ服を脱いだ瞬間に殺されたと考えられるのだ。マークを殺したウルフはジョシュに自分の友人の愚かさを晒し上げるために、顔だけでなく下半身の皮も剥いで哀れなマークの姿になりきったのではなかろうか。

また、この皮剥ぎという点はアリ・アスター監督が今作『ミッドサマー』を作るうえで意識したといわれる映画、トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1974年)を彷彿とさせる。


聖典を盗もうとした罰を受けるジョシュ。
自らの研究のために聖典、『ルビ・ラダー』を盗み見て殺されたジョシュ。
彼は一行のなかでは唯一、勤勉で真面目な性格の人物として描かれている。
だが、彼は論文が何よりの最優先で、ダニーを含めた他の仲間への心遣いがおざなりになっている印象を受ける。

ダニーが初めてスウェーデンの旅行に行くことが決まったときにペレは優しくダニーに話しかけるが、ジョシュは全く関与せず、1人で本を読んでいる。ペレが話を振っても曖昧な受け答えを続け、一人でコーヒーを飲むために別の席に移動している。
クリスチャンがジョシュにホルガ村の論文を書くと言い口論になった際は、自分が積み上げてきた研究の邪魔をするなと言ったうえで、これまで何もしてこなかったクリスチャンを激しく非難する。
このシーンにおいてはただの旅行目的でついてきたクリスチャンやマーク、ダニーを彼は見下していると捉えられるのだ。

人に気遣いのないジョシュは、聖典である『ルビ・ラダー』が論文に必要と考え独断で行動するが、結果的に彼は禁忌に触れてしまいマークの皮を被ったホルガの住民に殺されてしまう。

これまで、辟易していた愚か者であるマークの姿をした人物に殺され、庭に埋められるという末路は、他人を見下すエゴイストなジョシュに対してホルガの人々が下した仕打ちなのかもしれない。


血のワシとなったサイモンと、川の贄となったコニー。
ペレの友人、イングマールが連れてきた大学生カップルのサイモンとコニー。
ダニーたちと行動している際にもイチャイチャぶりを隠さず、村の残酷な因習について誰よりも拒否反応を示し、村を出ていこうとした2人。

サイモンは背中の皮を削がれて肺がむき出しにされた状態で、宙づりに。クリスチャンが鶏小屋で目撃した変わり果てたサイモンは、むき出しになっていた肺が膨張と収縮を繰り返していたので、この場面ではまだ辛うじて生存していたのだろう。

単なる惨殺よりも恐ろしいサイモンへの仕打ちだが、これは実際の後期スカルド詩にて語られる「血のワシ」と呼ばれる処刑方法だそうだ。
生きたまま肺を引きずりだし、翼のように広げる姿から名づけられたその処刑方法は、史実で行われたものなのか明白にはなっていないが、文献として残っているそう。

ラストシーンで濡れた状態で死体となっていたコニーは、ディレクターズカット版において収録されている川の儀式の生贄にされている。

アッテストゥパンを見て、悲鳴を上げて激しく責め立てていたサイモンとコニーは、ホルガの住民にとって儀式の邪魔をした忌むべき存在であったのかもしれない。最終的にダニー以外の外からの者はみんな死んでしまうが、サイモンとコニーはその中でも拷問を受け長い間苦しんで死んでいる。

聖なる儀式を侵した報いを受けたのではなかろうか。

ダニーがメイクイーンとなった後に行われた地中に供物を埋める場面では、卵と穀物が供えられていたが、このことから、卵を生み出す鶏のように見立てられたサイモン、穀物を育てるために必要な水を採取する川の犠牲となったコニーに繋がるようにも考えられる。

食料や水を確保するために祈願やおまじないをすることは、現代も一般的に行われる風習である。
そういった儀式に人命を献上する必要があると考えるホルガ村の異常性が垣間見える。


熊と一体化したクリスチャン。
クリスチャンは、最後の生贄として熊の体内に入れられ身動きのとれないまま燃やされて死んでいった。
作中では序盤にこの熊が生きた状態で檻の中に入れられているシーンがあったり、クリスチャンがシヴに呼ばれて待合室で待っている際に、熊の絵を発見していたりするなど、意味深な描写が多くある。

熊は、北欧神話やスカンジナビアの民間伝承にとって重要なシンボルであることに加えて様々な国で意味をもつ動物である。
その解釈は多岐に渡り、獰猛な強い動物として上級戦士の装備に皮が使用されたりすることもあれば、生まれたばかりの小さな小熊が人間を超える巨大な姿になることを拡大発展の象徴として奉られることもある。
日本では熊の手と書く熊手がある。
熊手は落ち葉をかき集める道具だが、その使い方が福や富をかき集めると解釈され縁起物としての側面も持ち合わせている。

以上の事柄から、熊という象徴は"畏怖"と"信仰"の両方を持ち合わせたものであると考えられる。

クリスチャンは物語の様々な場面で、2つの選択に悩み続ける人物だ。
ダニーは自身にとって重荷ではあるが、別れて彼女がさらに精神を病んでしまうことを恐れていたし、マヤとのセックスの誘惑に対しても悩み続けた後、誘惑に負けてしまっている。

最終的にマヤと性の儀式を行ったクリスチャンは、邪悪なものとして処罰されてしまっているが、彼が性行を行ったことでホルガで新たな命が宿り村の発展にも貢献していると考えられる。
誘惑に負けたクリスチャンは、人間ではなく野生の動物と同類であるという解釈も出来るだろう。

このように熊の皮を被って死んでいったクリスチャンは、野生と理性、人間と動物、ダニーとマヤ、邪悪と発展という様々な二項対立を象徴しているのではなかろうか。


アッテストゥパンを受ける2人の老人。
外からの者以外に生贄に捧げられたホルガ村の住民。4人のうち2人は生贄の儀式の前に、アッテストゥパンで死んでいった。
アッテストゥパンで自ら飛び降りした老人のイルヴァ(女性)とダン(男性)。実は彼らは、ダニーがホルガに到着して開かれた夏至祭を始める乾杯の後、宴の壇上でなにやら前儀式のようなものを受けている。壇上で松明を持ったイルヴァとダンに長老シヴは、

「炎よ、これまで。もう燃えず、熱することもなく」
とアッテストゥパンを迎える彼らを送り出すようなセリフを唱えている。

ちなみに、アッテストゥパンで亡くなる老人を演じたのは、あのビョルン・アンドレセン。クレジットを見て本当に驚いたのだが、かのルキノ・ヴィスコンティ監督による名画『ヴェニスに死す』(1971年)に登場する、美貌の少年タジオを演じた俳優であり、当世の評価では「世界一美しい少年」とされてきた。
本作、『ミッドサマー』はアンドレセンにとってのカムバック作品であり、クリスティーナ・リンドストロムとクリスティアン・ペトリが監督を務めたドキュメンタリー作品『世界で一番美しい少年』(2021年)で語られる、栄光と破滅を体験した彼にとっての、ある種の"禊"のような作品となったのだ。
どうか思い出して欲しい、崖を足から落ちてしまった彼は、うまく死ぬ事が出来ずに、村人らの手によって死を遂げている。
その際に、木槌で打ち付けられたのは彼のどの部位であるのかを……。
無論、アスター監督の確信犯だろう。


ウルフとイングマールから読み解けるホルガの価値観。
ボランティアで名乗り出たと言われているウルフとイングマールは、生きたまま生贄として燃やされてゆく。
ここで注目したいのは、どちらもイチイの木から採ったとされる何かを口に入れられるが、それぞれ飲まされるときのおまじないが微妙に違うのだ。
ウルフは「痛みを感じない」と言われ、イングマールは「恐れを感じない」と言われている。
大きな違いがないように思われるが、最終的に燃やされて悲鳴をあげているのは「痛みを感じない」と言われたウルフだけのように演出されていた。

イチイの木から採ったものには何の効果も恐らくないが、自分が生贄にされることの覚悟を見定める効果があったのではないだろうか。
自らの死を「恐れない」という覚悟を持ったイングマールは、生贄になることを誇りにとらえ叫ばなかったと考えられる。逆に「痛みを感じない」という肉体的なものにとらわれているウルフは死の間際、まだ死にたくないと生をあがいたのかもしれない。

また、ウルフとイングマールはボランティアで生贄に志願したと語られているが、この点には考察の予知がある。それは、「両者とも志願しなければ殺されていたというのでは?」という解釈だ。
ウルフはマークに先祖の木を汚され憤慨していた人物。この時、普段であるならば苦楽を共に共有するホルガの人々でるはずが、激怒しているのはウルフだけだ。考えられるのは、ウルフは先祖の木を管理する役職に就いていて失態を犯したのではないだろうか。元はと言えばマークが悪いのだが、ホルガの住民はウルフの管理不足で大事な村の宝に泥を塗ったと感じ、彼が生贄に志願しなければ殺していた可能性があるのだ。

そしてイングマールも動揺に失態を犯していると考えられる人物だ。
彼が見込んで連れてきたサイモンとコニーは、アッテストゥパン中に大声を上げて中止させようとした。大切な儀式の邪魔をしたサイモンとコニーを連れてきた罰を、イングマールは生贄という形で果たしたのではないだろうか。

さらに言えば、イングマールはサイモンとコニーが恋人同士になる前にコニーとデートをしていたと話していた。イングマールはコニーのことが好きだったのだと思われる描写だ。

ペレはイングマールと同じ境遇ながらも、連れてきたダニーをメイクイーンに、自分はメイクイーンを連れてきたものとして祝福されていたので、ペレとイングマールには表裏一体の関係が成り立つと考えられる。
イングマールはコニーをメイクイーンの候補としてホルガへ連れてきたのかもしれない。
もし、アッテストゥパンやその他の儀式で取り乱して叫んでいたのがダニーだったとしたら、メイクイーンになっていたのはコニーだったのかもしれない。

共同体を保つために、個を捨て身を尽くすというホルガの人々はときに残酷に個人を見捨てていくという恐ろしさが描かれている。

ちなみに、イングマールという名前はアスター監督が本作を制作する上で影響を受けた映画、『叫びとささやき』(1972年)の監督イングマール・ベルイマンからとっていると思われる。

女性たちの複雑な感情の機微が表現された『叫びとささやき』では、ホルガの人々が感情を共有する描写を思い起こさせるシーンもあり、ミッドサマーとは密接な意味合いをもつ作品になっている。


象徴的な造形物と文字。
ホルガ村では、様々な象徴的な形をしている造形物や文字が数多く登場する。
これらは物語の展開を暗示していたり、それ自体に意味があるものがあったりする。

物語を暗示するタペストリー。
作中では、冒頭やホルガ村の壁に様々な絵が模されているが、これらはその後の展開などを暗示しているものが多く見られる。

冒頭で現れるタペストリーは、物語全体を表している。
左の骸骨が描かれた部分は、背景が暗い色で寒い冬の季節にダニーが家族を失ってしまうことを意味している。
続く右隣の絵は悲しんで顔を伏せているダニーの横にクリスチャンがいる。その上から鳥と共に、舞い降りる男性が描かれていますがこれはペレだろう。
さらに物語は進み、ホルガ村のあの特徴的な入口から人々に歓迎されている絵になっており、最後はダニーが参加したメイポールダンスとなっているのだ。

また、ホルガ村に到着してイングマールとペレが村を案内しているときに見られるタペストリーでは、恋する女性が自身の陰毛を切って料理に入れたり、月経血を飲み物に入れて好きな男性に食べさせる模様が描かれている。これも後のクリスチャンとマヤを暗示するアイテムだ。

その他にも、クリスチャンが自身の最後の姿である"燃える熊"の絵を発見したり、寝室にはラストの"9人の生贄"とメイクイーンを象徴したような絵が書いてあったりする。


ホルガ村で扱われるルーン文字。
ホルガの人々が扱う言語、ルーン文字は「エルダー・フサーク」と呼ばれるものらしい。
これは実際にあるルーン文字の中で最も古い体系であり、紀元後約150年にも文字が記録として残っているようだ。

ルーンは"秘密"や"神秘"といった意味を持っている。
見てはいけない聖典『ルビ・ラダー』もこのような実際の文字の意味合いから作りこまれていると思う。
アッテストゥパンが行われる過程で、ホルガの老人が自らの血を捧げた石板にもルーン文字が見られる。

石板に刻まれている意味は以下のようになっている。

「ᚷ」(Gebo)=「贈り物」
「ᚱ」(Raidho)=「旅」「進化」「成長」
「ᛣ」(Algiz)=「盾」
「ᛏ」(Tiwaz)=「名誉」「正義」「自己犠牲」
「ᛈ」(Pertho)=「秘密」「超自然的な力」

これらの文字を組み合わせるとアッテストゥパンで利用された石板は、

「神への"贈り物"を捧げる。"名誉"ある"自己犠牲"を持って我らを守る"盾"となり、村のさらなる"進化"を"超自然的な力"でほどこし給え」

のような意味を持つ墓標ととらえることが出来る。

「旅」「進化」「成長」の意味を持つ「ᚱ」は石板以外にもメイポールやダニーが着る衣装にも同じように刻まれている。

ルーン文字を扱った聖典ルビ・ラダーの説明では、永遠に書き綴られて進化するということが語られていた。
これも「ᚱ」の「進化」や「成長」が表されているように思える。

古い因習にとらわれ続けているホルガの人々だが、「進化」や「成長」を求め続けているという考え方はある意味、皮肉なものかもしれない。


劇中における数字の「9」と「13」。
本作は、「9」と「13」という数字が顕著に現れる作品となっている。

「9」で表される事柄は以下のとおりだ。
9日間の夏至祭
90年に一度の大祭
9人の生贄
72歳になったら死を迎える(7+2)=9

「13」で表される事柄は、
メイクイーンとなったダニーを導いていく女性の数が13人であること。
クリスチャンとマヤの儀式中の女性の人数が13人なことだ。


数字の「9」が持つ意味。
数字の9は北欧神話ではオーディンがルーン文字の秘密を得るための肉体苦行が9日間であったことや、オーディンの住むアスガルドを含む9つの世界が存在するなど重要な意味を持つ数字だが、ここで考えたいのはキリスト教が持つ9の数字の意味だ。

キリスト教ではノベナと呼ばれる信仰業が存在し、連続して9日間祈ることを意味している。
キリスト教では10の数字を完全な神の象徴としてとらえ、それに1足りない9という数字を神に祈る不完全な人間の象徴として考えられていたという点がある。

ホルガの村の人々にとって、異教徒であるキリスト教の考え方がどこか共通するのは意外に捉えられるが、これはもしかすると他宗教を認めないことに繋がってくるのかもしれない。
その証明としてダニーの恋人であるクリスチャンはキリストにちなんだ名前をしている。彼を熊として生贄にするということは、他宗教の否定を表しているように感じるのだ。

数字の「13」が持つ意味。
9の数字がキリスト教にとって、祈る日数という良い意味であったことに対して、13の数字は忌み数として扱われている。
キリストを裏切ったとされる弟子のユダは「最後の晩餐」で13番目の席についていた、13番目の弟子で、13は不吉の象徴と意味されることがある数字だ。

キリスト教での忌み数に対して、本作、『ミッドサマー』で扱われる13の数字はダニーを導く侍女の数や、性の儀式を祝う女性の人数など、縁起のいい数字とされている傾向にあるようだ。
また女性の人数を表している共通点もあることから、13の数字はホルガ村の人々にとって女性的な意味合いを持っていると考えられる。

史実では、コヴン(カヴン)と呼ばれる魔女の集会の人数が13人であったことからも13は女性を表す数字である表現の1つなのではないだろうか。

以上の2つの点から考えると、ミッドサマーは男性であるキリストが象徴とされる部分と、女性的な13を表す部分が使い分けられていると考えることが出来る。

9という数字は物語序盤から多用されているが、後半になると13の数字が多く出現し始める。これは、ダニーとクリスチャンの力関係の逆転にも繋がってくるのが面白い点だ。

序盤からダニーのことが重荷であるクリスチャンだが、ダニーはそれを自覚しつつも依存することをやめられない。
しかし物語が進むにつれて、その力関係は変わっていき、最終的には13人の侍女を従えるメイクイーンとなったダニーが、これまでのクリスチャンの行いを9人目の生贄としてを裁くことになる。

13の数字が女性的であることから、9は支配欲の強い男性的な数字であり、ホルガ村の共有するという価値観は女性的であることを意味していると汲み取ることが出来る。

ホルガ村の長老がシヴという女性である点も関係があるのではないだろうか。


女王を決めるためのメイポール。
メイポール・ダンスは、邪悪がホルガのものを死ぬまで躍らせたという言い伝えから行われる儀式だ。
本作が影響を受けたとされる、ロビン・ハーディー監督によるカルト映画、『ウィッカーマン』(1973年)でもこのメイポールが登場するが、ここでのメイポールは「男根」の意味を持つと説明される。『ウィッカーマン』はその他にも、外部の者を生贄に捧げるシーンがあるなど、特に本作、『ミッドサマー』の元ネタが多い映画になっているので、本作が気に入った人ならば必見だ。

『ミッドサマー』のメイポール・ダンスが邪悪なものに踊り続けさせられるという意味は、もしかすると男性から逃げ続けるという意味合いもあるのかもしれない。
実際のメイポール・ダンスはヨーロッパで開催される5月祭(メーデー)で行われるもので、夏至祭に行われるものではないのが特徴だ。
こちらも作中と同様にメイクイーン(5月の女王)を名乗るものが、祭りの開催を宣言したり、花の冠を被ったりすることがあるとのこと。


生贄が行われる三角の黄色い神殿。
劇中の中盤で何気なく登場する三角の小屋のようなもの。これはラストで炎の儀式を行うための神殿だった。

三角形の象徴として有名なのは、「槍」だ。
神殿内で描かれていたルーンには槍の意味を持つ「ᚸ」が描かれていた。槍は軍事力を示す象徴であると同時に、経典にも様々な部分で登場する。

特に、物語と関連付けられるのが聖槍と呼ばれる「ロンギヌスの槍」である。
「ロンギヌスの槍」はキリストが死した際に、死を確認するために刺した槍といわれている。

前述の通り、キリストの名前にちなんだクリスチャンに止めをさすという意味では、他宗教を認めないホルガ村の意思が感じ取れる。

また、三角形も槍の矢先もどちらも天を指す方向を意味しているものと思われる。
夏至祭において、太陽の方角を示すものは今後の発展を祈願する表現であり、そのため神殿も太陽を模した黄色に配色されているのではなかろうか。


ホルガ村の人々の奇妙な習慣。

特徴的な「ホッ ハッ」という呼吸。
ホルガの人々が要所要所で口にする「ホッ ハッ」という呼吸法。
これはアスター監督のアイデアではなく、儀式曲を担当した合唱作曲家ジェシカ・ケニーが発案したものだそう。
劇中でこの呼吸が行われる時は、何かを意気込むときに起用されていた。また、二人で物事を行う描写でも使われていたことから「息を合わせる」という意味合いもあるのかもしれない。

価値観を共有してコミュニティとして生活することを第一とする、ホルガ村らしい文化の1つだと感じる。


性行の儀式「アワアワ」。
クリスチャンとマヤが行った性行の儀式では、12人の全裸の女性が二人を囲み二人の性交を祝福していた。一見かなり異様な光景なのだが、外部の血を受け継いだ子を生み出す性行為はホルガ村にとっておめでたいことであり、今回に限らずホルガ村でのセックスはこれが通常であるのだろう。

アスター監督は、日本の映画監督今村昌平にも影響を受けていると語り、彼が手がけた『神々の深き欲望』(1968年)では特異な集落で、女性が男性に性的アピールをする描写が多く見られる。

子孫の繁栄は独自の生活体系を要するコミューンや村では、その存続をかけた大切なものであると同時に村全体で祝福されるものなのだろう。


形作られるテーブルでの食事シーン。
この食事シーンで並べられるテーブルは全てルーン文字を表している。
ディレクターズカット版に挿入されているダニーたちが到着してまもなく行われる食事ではテーブルは配置されないが、ホルガの村の人々が囲んで座っている姿が空撮で映されそこにはたびたび登場する「旅」「進化」「成長」の意味「ᚱ」を確認することが出来る。

また、アッテストゥパンが行われる前の食事では「故郷」「財産」「土地」を表す「ᛟ」の文字が描かれ、メイクイーンを祝う席での鏡張りの直線的なテーブルは「冷たさ」「凝縮」「再生」を表す「ᛁ」が形作られている。

それぞれ自然の"土地"に返るアッテストゥパンと、ダニーがメイクイーンとなり疲弊した精神を"再生"させ、クリスチャンとダニーの"冷め"切った関係を表すターニングポイントを表しているのではないだろうか。

この他の食事シーンでは文字が何か確認は出来ないが、同様に机配置が変わっており、今後行われる儀式や展開を暗示するルーン文字が描かれているのだと思われる。


生涯を春夏秋冬で表す風習。
ペレがホルガ村の文化を説明するシーンでは、彼らの死生観が季節になぞられていると語られるシーンがある。
ちなみに、この季節の区切りは前述で紹介した9の数字を意味する9の倍数となっている。

0~18歳 子供の季節、春
18~36歳 巡礼の旅をする、夏
36~54歳 労働の年齢、秋
54~72歳 人々の師となる、冬

ここでダニーはその後は?と聞いた際、ペレは首切りのジェスチャーを行い一行はジョークだと笑うが、実際にアッテストゥパンで72歳を超えた人は死んでいる。アッテストゥパンが起きた後、ディレクターズカット版ではクリスチャンがこれに言及しているシーンが追加されている。

英語が話せるホルガの女性ウラは、ここで72歳を超えた人々は必ずアッテストゥパンで死んでいくと語っている。
彼らは生贄の儀式で、9人の中に加えられていたが、それ以外の72歳を超えた人々もアッテストゥパンで飛び降り自殺をしており、ホルガの人々は日常的にこの光景を見ていることがわかるシーンだ。

また、ホルガ村では英語を話せる人々が多く存在するが、これは彼らが18歳以降、巡礼の旅をする期間があるからだと思われる。
実際に子を持っている人も、巡礼の旅をしているからという理由で現在村には住んでいなく、村の人々みんなで子供を育てると話す部分がある。

ペレやイングマールも、この巡礼の期間を利用して留学生になっていたのだろう。もしかすると帰郷の際に外の人間を連れて帰ることも慣わしのひとつなのかもしれない。理由は村の子供に外部の血を混ぜるためだ。


性交後のマヤが口紅をしている理由。
性の儀式を終え、ラストシーンで現れるマヤは赤い衣装を纏いそれまでとは違う濃い化粧をしている。それまでの無垢で純粋な風貌のマヤとは違い、大人な雰囲気を感じさせるマヤだが、これは性交を終え一人前の女性になったマヤということを表しているのだろう。


近親相姦により生まれた障害者ルビン。
聖典『ルビ・ラダー』を書き記すものである障害者をホルガ村の人々は、ルビンと呼んでいる。

ルビンは先天性の障害者で、一般的な認知がない心は曇りがなく、達観して物事の根源を見つめると神聖視されている。
『ルビ・ラダー』を書き連ねるものとして、生まれる障害者は村の近親相姦によって、計算されて生まれるものだとホルガの人々は言っていた。

村の存続と進化のための『ルビ・ラダー』は、人為的に作られた障害者によって書き綴られているのだ。
物語に登場したルビンは、マヤとクリスチャンの性交の模様を凝視させられていたし、ホルガの人々にとってのルビンは本当に『ルビ・ラダー』を書き続けさせるための存在なのだろう。

何かインスパイアを与えさせるために、性交を鑑賞させるホルガ村の異常性が際立つ。


ダニーのその後とメイクイーンの意味。
物語ラストでメイクイーンとなり、クリスチャンを始末することになったダニー。
彼女は家族の呪いというものに縛られ続けていたが、メイクイーンとなりホルガ村の人々の一員になったと思わせる幕引きだった。

しかし、ここで考えたいのは夏至祭の日数だ。
劇中ではホルガ村に到着してミッドサマーを始めるといってから5日間しか経っていないのだ。
映画は終わってしまうが、この9日間の祝祭にはあと4日間が残されているのだ。

作中に登場するタペストリーには、物語中に見れなかったと思われるいくつかの儀式らしき絵を見つけることが出来る。

絵の中には、花に囲まれた人物が手を傷つけていたり、燃えている絵がある。そして、ホルガに向かうことを決めたダニーにペレが去年のメイクイーンの写真を見せるシーンがあるが、この女性はホルガ村に着いたあとも姿を現さず、写真だけの登場となっている。

さらに、壁画などに描かれるメイクイーンはしばしば太陽を模した絵になっているが、エンドロールのスタッフクレジットで流れている曲名はザ・ウォーカー・ブラザーズの『Sun Ain’t Gonna Shine(もう太陽は輝かない)』だ。
前述の「女王を決めるメイポール」で説明したように、メイクイーンは本来、5月祭で選ばれる女王だ。6月に開催されている夏至祭であるのにも関わらず、その前の月のメイクイーンを選ぶというのは少し違和感を感じる。

これらから言えるのは、この先メイクイーンを犠牲にする儀式が行われるのではないかということ。

凄惨な出来事を得て、ホルガ村を家族だと思えるようになったダニー。もしダニーが殺されてしまうとすると、彼女はまた悲劇を味わってしまうのだろうか。それとも、ホルガの価値観に染め上げられ、生贄となることに大いなる喜びを感じてしまうのだろうか。



共感を超えた調和こそ家族。
こうした様々な角度からの考察があるのは上記で述べたとおりだが、本作の大筋はダニーの家族への渇望と、家族という関係の定義にこそある。

血のつながった家族を全員失ってしまったダニーは、孤立して精神が不安定な状態になっていた。
だからこそ、一番身近な存在である恋人のクリスチャンに強く執着し、どこに行くのもクリスチャンに着いていく依存状態になっていたと考えられる。
ダニーは自分を支えてくれる家族が欲しかったのだ。

一方でクリスチャンは、そんなダニーが煩わしく、彼女の執着が激しくなってゆく度、辟易するようになる。クリスチャンは家族が欲しいのではなく、ダニーを1つの恋愛だと捉えて、いずれは別れる相手として見ていたのではなかろうか。

大学で旅行に行く仲の友人もいるクリスチャンは、自分が楽しい時間が過ごせればいいという主観的な考えが多く、それ故に喧嘩などの面倒ごとは避ける性質が多く見られる。

ダニーの楽しいときも悲しいときもそばにいて、共有したいという考え方とは真逆であったように感られる。

そんなダニーはホルガ村でメイクイーンとなった瞬間、家族のように温かく迎え入れてくれたホルガの人々の中に、あるべき家族の姿を感じたのではないだろうか。

ここでは幻覚の作用が原因か、ホルガ村の人々の中に、母親の姿をみるなどの描写や、メイクイーンとして運ばれるダニーの奥に見える山に、ガスホースで死んだ妹の姿がサブリミナル的に見られる。家族を失って悲しみに暮れていたダニーは、未だに家族という呪いに縛られてはいたが、新しいホルガ村の人々のコミュニティの中に彼女なりの家族の形を見出したのだと思う。

そして、彼女は喜びだけではなく、クリスチャンとマヤとのセックスを目撃してしまった際には、悲しみの共有することも経験する。
今まで寄り添ってくれていたクリスチャンは、ダニーの家族が亡くなり涙しているときにはそばにいてくれてはいたが、彼はダニーをなだめようとするだけで一緒には泣いてくれはしない。
ダニーの悲しいという感情に対して、同じように泣き叫んでくれたホルガの人々こそ、家族のあるべき姿なんだとダニーが感じた瞬間であったのだ。

こうしてクリスチャンのみに家族の重荷を迫っては交わされ続けていたダニーは、ホルガのコミューンに完全に属することになったのだろう。

これまで付き合っていたクリスチャンを見放して裁いてしまう。この作品のラストでは実際に殺すのではなく、恋人との別れは、自分の中で相手の存在を殺す、もう会わないと決心することが必要なのではないかというメッセージを感じる。

実際、本作の制作には、アスター監督のリアルでの失恋が元になったというコメントもある。

長い間失恋状態のようであったダニーは、それを乗り越え完璧な清算をして晴れやかな笑顔で笑っていた。この一連の流れには強靭なカタルシスが感じられる。カタルシスを重視するアスター監督ならではの作劇だ。

ただ注意しておくと、この作品はドラッグへの言及が鋭い作品だと思う。登場人物たちが作中で使用する、あるいは盛られるという意味においてもそうだが、映像や音響の使い方にトリップムービー的な側面も有している。ある種のゲートウェイにならないことを祈る。
朱音

朱音