小松屋たから

鉄道運転士の花束の小松屋たからのレビュー・感想・評価

鉄道運転士の花束(2016年製作の映画)
3.8
経験したことのない奇妙な味わいの映画だった。セルビアの鉄道運転士たちの物語。彼らは、相当数の「殺人」を経験している。ただしそれは事故がゆえであり、法的に責任を問われることはない。

自分が轢殺してしまった人の数を淡々と語る運転士たち。おおげさに悲しみもしなければ、良心の呵責を訴えるわけでもないが、もちろん自慢するわけでもなく楽しんでもいない。

不愛想なベテラン運転士・イリヤも同様だ。人間を轢いてしまったことに対してはうまく感情をコントロールできるようで、未熟な心理療法士など、軽く一蹴してしまう。

でも、線路上で出会って一緒に暮らすことになった「息子」、シーマがいくら望んで決して運転士になることを認めようとはしない。しかも最近は、どうやら、夜は一人で線路上を彷徨ったり、鉄道事故で亡くなった恋人の幻影を見ていたりと、長年の抑制してきた想いの積み重ねが徐々に精神の均衡を崩し始めているようだ。そして強引に運転士になったシーマは、轢殺を経験しない限り自分は一人前の運転士になれないと信じこみ、こちらも心理的に追い詰められていく。

もちろん映画的ファンタジーだとしても、牧歌的な「大家族」のような鉄道員たちの暮らしぶりも興味深い。運転士の背中を見て育った子供たちは運転士になる。その継承の中の通過儀礼として「轢殺」があり、隣人によって身内の命が失われることも定められた運命であるかのように静かに受け入れられている。

こう書くとすごく重たいヒューマンドラマに聞こえるかもしれないが、これが本当に不思議なことに深刻さは感じない。「ブラックユーモア」とジャンル分けされているが、露悪的なグロさは無く、不快さもない。このカラッとした「命」の扱い方は、やはり遠くない過去に激しい内戦を経験した国ならではの何か特別な死生観がベースにあるからなのだろうか。

気になって調べてみたら、某新聞社のネットサイトによると、日本の2018年の鉄道自殺は全国で約600人。だから実は日本でも多くの鉄道運転士は現役中、飛び込み自殺に遭遇していることになる。その心の痛みに対しては様々な医療科学的見地からメンタルケアがなされているのだろうが、セルビアの鉄道員たちの「疑似家族」による互いのいたわりの心、不器用な愛情表現による癒しにはかなわないかもしれないと思った。