朱音

異端の鳥の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

異端の鳥(2019年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

ポーランドの作家イェジー・コシンスキによる1965年の著『ペインティッド・バード』は、作者自身がホロコーストの生き残りであり、迫害や暴力を生々しく自叙伝的に書き記した内容が、当時のヨーロッパ諸国で問題となり、地元ポーランドでは出版禁止の処置がなされる程の締め付けを受けた。

原作小説のタイトル『ペインテッド・バード』は「色を塗られた鳥」という意味で、色を塗られた鳥が集団の中に入ると、他の鳥達から異端の鳥とみなされ、攻撃され排除される、という動物の持つ残酷な本能を人間の世界にも当てはめるように付けられたそうだ。映画本編では、鳥を狩って売る仕事で生計を立てていたレッフ(とルミドラ)の章でそれが映像化されており、これまたなかなかの衝撃を与えてくれる。

作家自身も後に謎の自殺を遂げた“いわくつきの傑作”を映画化するにあたり、チェコ出身のヴァーツラフ・マルホウル監督が映画化権を獲得。脚本作りや資金集めなど、映画化するための準備を含め、11年もの歳月を費やして2019年に作品発表された。主人公の"少年"(ヨスカ)を演じるペトル・コトラールは本作が映画初出演、初主演となったわけだが、9歳から12歳にかけて約2年にもおよび本作を撮影し、彼自身の身体的な成長も作品の時間経過にリンクさせながら物語を作り上げている。序盤と後半の彼の見た目の違いにも注目すると、より物語にリアリティを覚えるだろう。


使用されている言語。
本作、『異端の鳥』では英語やヨーロッパ諸国の言語ではなく、インタースラヴィク / スラヴィッグ・エスペランド語という人工言語が使用されている。ポーランド、チェコ、ロシアなどの東ヨーロッパ・スラブ諸国で使用されている共通言語で、それらの地域に住むスラブ民族達にとっては馴染みのある言葉らしい。

マルホウル監督によるとスラヴィッグ・エスペランド語が使用された理由は大きく分けて2つで、原作小説が問題視された背景を含め東ヨーロッパ・スラブ諸国の人々のアイデンティティーに配慮し、どの地域の物語であるかを特定されないようにするためと、英語での演技は真実味を損なってしまうとの判断からであるという。なお、この言語を使用した映画は史上初との事だ。


暴力の普遍性を描いた物語。
まず、観客は徹底したリアリズムで展開される残虐行為の数々に息を呑むことだろう。ど頭から主人公の少年が抱えていた犬が、複数の少年たちに焼き殺されるという十分すぎるほど衝撃的なシーンで幕を開ける。海外では各地で途中退場者が続出するという騒ぎになっており、言ってしまえばそれも納得は出来る。だが、この『異端の鳥』は最後までみるべき作品だ。なぜなら、これは単なる露悪趣味の映画ではないからだ。

原作者はもとより、マルホウル監督が意図しているのは、「暴力が特殊なものではなく普遍的なものである」という世界観を体験させることに尽きる。もっと言えば、それは決して殺傷行為だけに留まらない。性行為はもちろんのこと、視線、表情、言葉遣い、仕草、匂い、雑音、これらすべてが物語が進行するにつれて暴力の容貌を帯び始めるのだ。ただし、この場合の暴力とは、生命活動そのものの影響力を指す広義の暴力のことである。ホロコーストに関するエピソードがあるが、それは実はこの映画のメインテーマではない。


他人と異なること。
主人公の少年の黒い髪と黒い目は、ユダヤ人とジプシーの特徴といえるもので、そのために各地で民衆による差別と迫害にさらされ、放浪を余儀なくされる立場に陥ってしまう。その先々で出会う人々に導かれる数奇な運命が物語を引っ張っていくわけだが、とはいえ、少年が本当にユダヤ人やジプシーであるかはさして重要な問題ではない。ただ他と色が違う異質なものであるというところにこの問題の本質がある。色とは私たちにとってラベリングと同義といえる記名性の事であり、記名性は"自分が何者であるか"を明確にするが、同時に"よそ者"をも明確にする。だが、本作における思考はそこで終わらない。記名性が失われることによるカオス、つまり境界や秩序がなくなった世界をも描き出すからだ。

マルホウ監督はこう語る。

「周りの人々は彼のことを"ジプシー"、"ロマ"、"ユダヤ"と呼ぶわけですが、最も大事なのは、他の人々と違っているという点。他はみんな金髪で碧眼だったりするのに、彼は肌も目も黒め。ジプシーなのか、ユダヤ人なのかというのではなく、とにかく彼が人と異なっているというのが重要でした。」

(中略)

「映画の舞台が第2次世界大戦中のヨーロッパというのは重要ではなく、タイムレスな物語として描くよう心がけました。どこでもいつでも、そして今も、こういうことが起こっていることを観客にもう一度思い出して欲しい。それに付随していろんなことを考えて欲しい。」

本作で描かれている暴力は歴史を超えて常にありとあらゆる場所で出現し続ける普遍的な現象なのだ。


記名性を失うことによって得られるもの。
本編中のほんのわずかな幕間でしかないが、記名性が何の役にも立たない荘厳な大自然において、あるいは記名性に重きを置かない人々との邂逅において、少年はある種の解放感とともに自由を享受することになる。
しかし、この自由は言わば透明人間のそれだ。戸籍登録がされているようなカウント可能な"社会の構成員"としては存在せず、その外側のカウント不可能な領域へと飛躍するようなものである。森の木々や生き物たちは誰にも知られることなく死と再生の営みを繰り返しているが、人間であることの徴がなくなればそれと同様のカオスの世界が待ち受けている。剥き出しの生態系は良くも悪くもわたしたちの概念的枠組みには無関心なのだ。

インタビューにて、
「私が描こうとしていることの一つなのですが、私たちの惑星、自然と言い換えてもいいと思いますが、それ自体に独立した生というものが常にあります。そこで生きる人類にも独自の運命がありますが、それに対し惑星が気にかけることはありません。人間がどうなろうとも自然は素晴らしく、森も川も美しくあるべきで、ひどい行いをしているのは、人間の側なのです。でもお互いに同じ場所に存在しているわけで、人間はその一部。そのため、あなたの仰った通り、人間と自然を対比させて描くことはまさに私が意図したことです。」

と、マルホウル監督は語っている。
彼はステートメントで、「人間の暴力は人類の本質を明かすもの」と言っている。

「まず、脚色するのにこの作品を選んだ理由ですが、多くの人はこの原作を暴力や独裁制についてのものと読んだかもしれません。でも私にとっては違いや”逆”ということがベースにある物語だと感じました。人は真逆の立場におかれている時に、気づきがあります。平和な生活の大切さに気づくのは、戦争が起きている時。」

健康の大切さに気付くのは、特に今のコロナ禍にあるような時であり、笑顔の大切さに気づくのは、ヘイトや暴力に直面し、笑顔を失った時だ。
マルホウル監督にとって、こうした真逆にあるものを示すことが最も大切であるということが伺い知れる。
彼が初めてこの原作を読んだ時は、ヒューマニズムや希望、愛についての物語だと思ったそうだ。


社会の構成員として生きる不自由と救済、属さないことで得られる自由とカオス。作品を貫く寓話性、普遍性。

「何者であるか」を明確にする一方で、「よそ者」も明確にしてしまうという記名性の両義性は、少年がソ連軍に保護され、一時的に兵士となりかけるプロセスにおいて、驚くほどアイロニカルに語られる。共産主義というカテゴリーの庇護を受けながら、そのカテゴリーゆえの殺戮を目の当たりにするからだ。
民俗宗教であれ、キリスト教であれ、ナチズムであれ、共産主義であれ、そのカテゴリーの構成員として生きる上で、記名性に基づく価値判断は何の根拠もなくでたらめであるが、わたしたちは名無しのまま社会を生きることは困難である。

本作の寓話性の核心がここにある。


終盤、少年は父親との再会を果たし、ふとした拍子に名前を取り戻す。他ならぬ理不尽が刻印された徴を目にしたことによって。しかしこれは、元の少年に戻ることを意味しない。「私たちの存在の一部はまわりにいる人たちの心の中にある。だから自分が他人から物とみなされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ」とプリーモ・レーヴィが『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』で述べたように、魂に彫り込まれたカオスの徴は絶対に消えることはないからだ。

そこで少年は初めて父親も自分と同じカオスの世界にいたことを瞬時に理解する。それは名付けという理不尽と名の喪失という理不尽を経由して到達したまったく新しい生の地平であり、想像を絶する悪夢でしかなかった血と慟哭で描かれた軌跡がそこにあるからだ。
朱音

朱音