Taka

バビロンのTakaのレビュー・感想・評価

バビロン(2021年製作の映画)
4.5
栄枯盛衰を繰り返すハリウッドで巻き起こる人間の生理と欲望を渦巻かせながら送る狂騒曲は永遠には続かない。やがて映画は栄光なるハリウッドよ、さらば!と言わんがばかりの過去への憂いと忘却、それでも続いていく時代への願いを殴り捨てながら向かう。自分が観たかった"映画"はこれである。

この映画の感想へと入る前に書いておきたいことがある。自分は完成されている壊れた作品が大好きである。どういうことかというと、作者の精神状態が破綻していたり、作品そのものを殴り捨てたり、観客に冷や水をぶちかますように嘲笑う作品がしっかりとした状態で現れているものである。具体的にはエヴァンゲリオン旧劇場版の気持ち悪いエンドとかファイト・クラブのちんこエンドとかフリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」とかを指すのだが、本作を観て自分が抱いた感想は正しくこの壊れた作品に巡り会えたぞ!という感覚だった。もちろん、冒頭から糞尿を放出し、ドラッグをキメて、セックスを始め、死者まで出す狂喜乱舞の映画現場も壊れたといえば確かにその通りだが、その感想が確信に変わったのはラストである。観た人なら賛否を大きく分断させたオチにこそ、自分は感想で具体例を挙げた作品に匹敵する殴り捨てを行ったのではないか?と思ったのだ。目紛しく映し出される引用映像の数々の先に訪れるあの演出がもはやここまで観てきた本作を無意味にさせるような暴力で忘却の彼方へと風呂敷を投げ捨てる感覚に苛まれ、その後に訪れるあのショットはそれでも映画と時代は続いていくよどこまでもという憂いと歓喜が入り混じり終了する。これだ、これだよ!と。自分にはチャゼル監督が"ここにいたい"ではなく、"ここではないどこかへ歩んでいきたい"とするラストに思えた。それはあの曲を巡る1920年代と1950年代のことを思えば尚更だし、そういう意味で過去をクヨクヨしててもしょうがないよね、どうせいつかは草臥れるし、いつかは誰かに掬われるからとすら思うのだ。

と、ラストの感想だけ書いていてもどうしようもないので、他の良いところを挙げよう。冒頭のパーティーでのマーゴット・ロビーのダンスシーンをはじめとした中心を意識して観客の視点を集中させる画作りで狂喜乱舞を散漫とさせていないところ(衣装を目立たせているのもポイント高い)、カメラのレンズやトランペットのベルといった丸をジッと写している意味が終盤のあの薄気味悪いシーンへと誘っているところ、映画撮影の場面の緩急をつけたことで成功の後味を引き立たせているところ、「ジャズ・シンガー」の試写会場面(マニーが走り出すシーン)でトーキー映画の到来がモンスター映画のようにも感じたところ(マニーが映画で一番、映画というモンスターに振り回されているところ)、トーキー映画の撮影シーンがドリフの映画撮影コント並みの完成度で完璧だったこと、ブラッド・ピットとマーゴット・ロビーを出演させている点が「ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド」を彷彿とさせるが、ブラピに関しては北野武監督の「ソナチネ」と双璧を成す場面を迎えている点が良いところなどなど他も良いところは本当にいいのだ。そして、ラストに向けたオチの探り合いが上手くいっていない中でのあのラストで自分はOKと思ったのである。

近年、ストリーミングサービスの到来によって映画の再定義が行われる中で映画監督たちは自身の半生や憧れていた時代を描くことで映画についての映画を撮るケースが多くなってきたが、それは大抵、巨匠とかがやっていることでチャゼル監督はまだ38歳である。まだ長編映画の監督4作目であるにも関わらず、予算をしっかり組んだ上で映画についての映画を撮るというのはもはや引退するのではないか?という心配すら生まれるほどだが、そこも含めて自分はよくやったと思うし、彼こそがアメリカ映画を引っ張れる一員であって欲しいと改めて思ったりしたのだ。

明日、自分が死んでも、映画が無くなっても、地球が滅んでも、バビロンのラストが観れたからそれで良いとすら今は思っている。なんなら、地球最後の日に観る映画はこれで良い。これ観ながら、呟くのだ。くだらねぇ人生、くだらねぇ映画たち、くだらねぇ世界だったと。
Taka

Taka