horahuki

死霊館 悪魔のせいなら、無罪。のhorahukiのレビュー・感想・評価

3.7
いやいやいや邦題マジで最悪でしょ!内容は確かに邦題通り『エミリーローズ』的なものが主軸に据えられてはいるのだけど、この邦題だと内容に対する悪質な煽りのようにも捉えられるし、むしろそっちのニュアンスの方が強く感じてしまうし何よりダサい!!前作みたく『エンフィールド事件』的なのにしとけば良かったのに…。

内容的にはやっぱりジェームズワンに撮って欲しかった😭と思わずにはいられないものでした。チャベス監督の演出は良いのだけど、コレジャナイ感が強くて…。でもシリーズとしては非常に真っ当な展開でした。というわけで次作は監督ジェームズワンでお願いします…(切実)

以下超長文なのでスルー推奨です。
あと微妙にネタバレかも。


10年代前半〜中盤のオカルトホラーを牽引した『死霊館』シリーズは家族、特に親子関係を超ポジティブに描き続けてきた。貧困を根底に置き、それに負けないよう協力する仲睦まじい家族でありながら、それは表面的意識部分に過ぎず、無意識部分では互いを足枷だと潜在的に感じている。この意識と無意識の差を自覚して、無意識の空間に抑圧して閉じ込めていたもの(バスシーバ)を意識領域に登らせ打ち破ることで家族を成す…までの物語だったのが『死霊館』。とにかくどんな状況でも家族はサイコーだから!ってな具合で。

次作『エンフィールド事件』も貧困を根底に置き、対称性を失った家族間の不信から崩壊を辿る家族を、崩壊した者たちと対外的関係を持って描いたけれど、3作目の本作では、1作目の『死霊館』をベースに『ヘレディタリー』『The Dark And The Wicked』等々に代表される10年代後期に流行した「家族であることの呪い」に対して、「家族は素晴らしい」的価値観の権化であるウォーレン夫妻が立ち向かう。つまりは「家族は怖い…」と「家族はサイコー!」の価値観的激突。これは、「家族は怖い…」を流行させたA24系ホラー群から覇権を奪い返そうとする家族信仰的な『死霊館』サイドからの全面対決姿勢が全開に押し出されているように思えて面白かった。

そして本編シリーズとは逆にネガティブに描いてきた『アナベル』シリーズ。これは「アナベル」というアイテムを深掘りするためのスピンオフであるため、本編シリーズのようなポジティブさは排除されている。本編シリーズの敵であるバスシーバもヴァラクも家族構成員の互いに対する無意識下でのネガティブな感情の総体であったように、アナベルも同様。

このスピンオフシリーズは、アナベルが如何にして家族に根付く「負」を媒体として蓄積したかを描いている。失った娘の写し見としての「負」の象徴としてスタートした『アナベル2』は、家族間に蔓延る「負」を開かずの扉という無意識領域に抑圧することで意識的に平穏を保っていた家族が、家族とは真逆の喪失を纏った少女たちにより抑圧が外れて検閲を通り越して意識領域に登ってきた「負」と対決する物語。だから構造的には『死霊館』のバスシーバと同様のものなのだけど、真逆の結果となった家族信仰敗北事例。

このように過去に起因する「負」を描いた『2』に対して『アナベル1』は家族の未来にのし掛かる不安としての「負」を描く。マタニティーブルー的なところからスタートするために『ローズマリーの赤ちゃん』からの影響が色濃く、「子」に対する極端な失敗例を目の当たりにしたが故に未来への不安が家族(主に妻)に重くのし掛かる。こちらも『2』ほどではないながらも家族信仰敗北事例。

『3』はシリーズが描く「家族」の対象を明確にウォーレン夫妻に移行させるための準備運動であるがために薄味ではあるのだけど、アナベルを封じたガラスケースそのものがウォーレン一家の抱える「負」を無意識領域に閉じ込めるための役割を果たしていたことが暗に描かれている。そして色んな家族を「負」から救い、「家族サイコー!」を成し遂げてきたウォーレン夫妻こそが、家族間・親子間の関係性において最大級の「負」を抱えているのだということを真正面から捉えたのが本作『死霊館3』。上でA24との全面対決と書いたけれど、ウォーレン夫妻が自分たちのあり得べき未来像と対決する本作は、A24の台頭故に生まれた即席的な発想ではなく、一作目の『死霊館』で既に明確に描かれていたことからも、本シリーズの向かう先として当初から想定された対決だと言えると思う。

とりあえず、これまでの過去作群の家族たちが無意識化に閉じ込めてきた「家族内部の負」と戦ってきたように、ついにそれがウォーレン夫妻に回ってきたのだということ。だから、事実として存在するのかは置いておいて、少なくとも映画『死霊館』シリーズは、アナベルというウォーレン一家が無意識化に閉じ込めた負の象徴的存在を箱から出さないと終わらないと思う。本作の興収がどれほどなのかは知らないけれど、これで打ち止めにならなければ良いなぁと思った。

というのも、残念ながら本作はジェームズワンとの力量の差を実感させるような内容だったから。空間の捉え方やキャラを追随するカメラ、従来的なホラー映画以上にアクション映画を念頭においた演出にジェームズワン成分は確かに感じるのだけれど、借り物感が強く、あらゆる方向に広がりを見せる「空間」そのものに対する「信頼」にまでショットを高められていない。一点に対して幾重にも「負」を滞留させる丁寧な土台作りも見られず、恐怖演出すらも貧困に代表される家族間の問題と結び付けることに成功していたジェームズワンの巧みさは見られなかった。チャベス監督らしく緩急の効いた演出や、『エクソシスト』『シャイニング』『ザショック』『エンフィールド事件』等々へのオマージュはあれど、どうしても本編というよりスピンオフって感じがしてしまう。ジェームズワンが監督に戻ってこないと、もう多分このシリーズ終わってしまうと思う…。
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